山田洋次の軌跡 by KIYO

「山田洋次の軌跡」連載第5回

第5話「馬鹿が戦車でやって来る」
<概要>
ハナ肇を主演とした喜劇「馬鹿」シリーズは全3作で一応の終了をみる。
もちろんその後も山田=ハナコンビの作品は続くわけだが、その「馬鹿」シリーズ第3作目が「馬鹿が戦車でやって来る」である。

<ストーリー>
海のそばにある小さな村「日永村」。この村はずれに、少年戦車兵上がりのサブ(ハナ肇)が、耳の遠い母(飯田蝶子)と頭の弱い弟の兵六(犬塚弘)と住んでいた。村の人間たちは何かというとこのサブの一家を忌み嫌っていた。
サブの畑を地主の仁右衛門は欲しがっており、安い値段で売ることを持ちかけるが、サブは断って騒動となる。
仁右衛門には病床の娘の紀子(岩下志摩)がいた。紀子は自分の病気が回復したので、全快祝いをする事になり、サブをその席に呼んだのだった。
喜び勇んで精一杯めかし込んで紀子の家に行く。ところがみんなからは、祝いの席から追い出され、笑いものにされてしまう。サブは村中を巻き込んで騒動を起こし、警察に捕まってしまう。
村会議員がサブの母をだまし、サブの保釈金を立て替える代わりにサブの畑を差し押さえてしまう。
一週間してサブが保釈されて戻ってくる。その夜、サブの復讐を村人たちは恐れるが、サブは家から一歩も出ず、季節がたち、春が来た。
夜が明けてみると、サブの家の納屋が道路に動いている。村人たちが不思議に思うと、中から戦車が飛び出してきた。サブが昔戦車兵だったときに納屋に隠していたのだ。
サブは戦車に乗って村中を破壊する。仁右衛門の家、母をだました議員の家、自分を笑いものにした村人たちの家、次々に破壊していく。誰もサブの怒りを止めることは出来なかった。
その騒ぎの中、兵六が火の見櫓に上って落っこちてしまう。このことをサブが知ったらどうなるかわからない。村人が逡巡していると、泣きながら紀子がそのことを告げた。
その夜、兵六の亡骸をつれて、サブは戦車に乗ってどこかに行ってしまった。朝になって村人が戦車の跡を追うと、山を越え、海まで続き、海中へ没していた。
その後サブは母を連れていずこかへ去り、村人もそのことを誰も言うものはいなくなった。わずかに戦車の跡を「タンク道」として村人が使うのみである。紀子はタンク道を通る度に、サブのことを思い出すのだった。

<解説のような感想>
「馬鹿まるだし」が人情喜劇、「いいかげん馬鹿」が叙情喜劇と呼べるなら、「馬鹿が戦車でやって来る」は怨念喜劇とでもいえようか。
「戦車」の主人公サブは安五郎や安吉と違い、誰からも愛されない。愛されないどころか憎まれ、笑いものにされている。そのことに対する復讐心はヒロイン紀子の力をもってしても癒されることはない。いやこの作品のヒロインはヒロインとしての力を与えられてはいないのだ。ただただサブの悲劇を作り上げるための触媒としてしか働かないのである。
サブの一家を村人たちは蔑んでいるが、何故そのようなことになっているのか、映画の中では説明されない。あえて説明はされてはいないけれどもこういったことは日本の古い因習の中に根強く潜んでいたのである。
山田監督はハナ喜劇という枠を使って、このような因習打破をテーマとした作品を作り上げたのだろうと思うが、まったく救いのない喜劇というのも珍しい気がする。
喜劇というのはある種人の無様なふりを笑うことで成立する。しかしそこに登場人物の救いがなければ、後味の悪いものだけが残るのみである。
だから寅さんはヒロインに振られてもくるまやの人たちは優しいし、旅の中でも陽気に商売をするのである。「ああよかった」と観客が気持ちよく映画館から出てこれるのもこのためである。
しかしサブには救いは用意されていない。ただ復讐を胸に大暴れするだけなのだ。私がこの作品を怨念喜劇と書いたのはそのためである。
なぜこのような作品になってしまったのだろう。山田監督は基本的に人間賛歌をテーマとしているが、その反対側、庶民の中にある反人間的な感情を捉えようとしたのだろうか。かもしれない。
人間の暗い情念を知らなければ、「人間はすばらしい」等という言葉は空疎なものに聞こえるだろう。山田洋次は冷徹な目をもって人間を捉えているからこそ、人間の素晴らしさをその後の作品で語ることが出来たのだと思う。
この人間に対する冷徹な視線は、次作「霧の旗」で頂点に達するのである。

次回、第6話「霧の旗」に続く。

97/05/04(日) 22:37 KIYO(YRG02560)


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