日本映画専門情報サイト:fjmovie.com

fjmovie.comトップページインタビュー一覧>「世界が愛した才能〜Global Recognition〜」高橋康進監督・三宅伸行監督インタビュー

「世界が愛した才能〜Global Recognition〜」高橋康進監督・三宅伸行監督インタビュー

高橋康進監督・三宅伸行監督写真 ニューヨーク国際インディペンデント映画祭2009外国語部門で最優秀長編映画賞、最優秀監督賞、最優秀スリラー映画賞の三冠に輝いた『ロックアウト』。オースティン映画祭2008でグランプリを受賞した『Lost & Foud』。海外の映画祭で高い評価を得た2本のインディペンデント映画が「世界が愛した才能〜Global Recognition〜」と題して公開されます。
 高橋康進監督の『ロックアウト』は、記憶を失いつつ車を走らせる男とひとりの少年が出会うロードムービー。
 三宅伸行監督の『Lost & Foud』は、ローカル線駅の“落し物あずかり所”の係員を主人公にした群像劇。
 ともにアメリカで映画を学んだ経歴を持つふたりの監督は、独力で海外の映画祭へと出品し、高い評価を獲得しました。その挑戦は、日本のインディペンデント映画に開かれたひとつの大きな可能性を示すものに違いありません。
 なぜ、アメリカで映画を学び、なぜ、海外の映画祭を目指すのか。そして、それぞれの作品はどのようにして誕生したのか。ふたりの監督にお話をうかがいました。

(写真左:高橋康進監督・写真右:三宅伸行監督)

高橋康進(たかはし・やすのぶ)監督プロフィール

1974年生まれ、新潟県出身。獨協大学在学中の1995年に渡米、カルフォルニアのDE ANZA COLLEGEで映画製作を学ぶ。帰国後、テレビ、映画、CMの製作部として仕事をしつつ、自主映画製作グループ on the road filmsを主宰し映画製作をおこなう。2004年製作の『Falling life』は2006年から2007年にかけてスペイン、アメリカ、フランスの映画祭で上映される。最新作『ロックアウト』はニューヨーク国際インディペンデント映画祭2009外国語部門で最優秀監督賞をはじめ三冠を獲得したのをはじめ、世界各国の映画祭で高い評価を受けている。

三宅伸行(みやけ・のぶゆき)監督プロフィール

1973年生まれ、京都府出身。広告会社勤務を経て渡米、ニューヨーク州立大学院映像学科で2年間にわたり映画制作を学ぶとともにカメラマンとして多くの作品に携わる。帰国後、ディレクターとして映像プロダクションに勤めつつ自主映画を制作する。『遺影』で第2回山形国際ムービーフェスティバル2006準グランプリを受賞し、スカラシップを得て製作した『Lost & Found』がオースティン映画祭2008グランプリを受賞したほか、海外の映画祭で多数入選。現在は自身の映像制作会社Gazebo Filmを設立。参加したオムニバス映画『掌の小説』が3月27日公開。

「映画について学ぶことはたくさんある。それは学びはじめてわかった」(三宅)

―― 最初に、おふたりがアメリカで映画を学ばれた経緯を教えていただけますか。

高橋:ぼくはまず語学留学でアメリカに行きまして、3ヶ月間語学をやったあとに、残りの3ヶ月、旅行して帰国するつもりだったのですが、まだ力不足を感じて、もう少し滞在して勉強しなくてはいけないと感じていたときに、ある先輩から「映画とか興味はないの?」みたいなことを言われたんです。先輩が通っているカレッジは映画学科も充実していていい学校だと言われたので「楽しみながら英語が勉強できるならそれがいいや」って軽い気持ちで選択したのが映画だったんです。それが学びはじめたらどんどん面白くなって、映画を作りたくなっていったというのが経緯です。

三宅:ぼくは、もともと映画はすごく好きだったんですけども、大学を卒業するときになっても自分の指針というか、なにをやりたいかが定まっていなくて、映画とは関係のない会社に入ったんです。会社に入ったらやることがたくさんあるので、それはそれで充実した日々を過ごしていたんですけど、30歳になる前に「自分がほんとにやりたいことはなにかな?」みたいな問いが自分の中で出てきたんですね。それで、それまでは自分が映画を作るなんておこがましいかなと思っていたんですけど、映画を作ってみようかなっていう気持ちになって、まず日本で週末だけのワークショップみたいなところに行ったんです。正直、そのワークショップはあんまりよくなくて、それからそのころは日本の映画業界もよくない時期で、助監督とかになっても食べていけないという話を聞いたりしてたんですね。やっぱり、自分の作品を作ってナンボっていうところもあったし、フィルムで撮りたいって気持ちもあって、アメリカだとそういうチャンスもあると聞いていたし、以前からニューヨークに行きたいという気持ちがあったので、ニューヨークの大学院に行こうかなと思ったんです。

―― もともと海外の映画への志向はあったのでしょうか?

高橋:ぼくの場合は、ごく一般的な人と同じレベルだと思います。大学のときにレンタルビデオ屋さんが大学の近くにあったんでわりと借りていたほうだとは思うんですけど、どっちかっていうとぼくは体育会系だったんで(笑)、そんなに数は観ていなかったですね。

三宅:ぼくはけっこう好きでしたね。好きな作品というとヨーロッパの作品がすごく好きなんですけど、ひとつのきっかけとなっている作品にスティーヴン・ソダーバーグの『セックスと嘘とビデオテープ』(1989年・米)という映画があって、アメリカン・インディペンデントみたいな作品にもすごく影響を受けているんです。そういう作品って低予算で登場人物が少なくて「こういうやり方なら自分でも作れるんじゃないか」と思ったのがアメリカのインディペンデント作品だったんですよね。

高橋:ぼくものちにそうなりましたね。向こうで勉強を始めてから、たまたま食事に招かれてお会いした日本人のご夫婦が、お勧めの映画と監督名を挙げてくれたんですよ。そのときに名前があったのがジム・ジャームッシュであり、ヴィム・ヴェンダースであり、ジョン・カサヴェテスもいて、それからジャームッシュやカサヴェテスといったニューヨーク・インディーズをすごく観るようになって、すごく影響を受けています。いま三宅さんが言ったように、少ない登場人物で、こういうアプローチなら自分にもできるんじゃないかという製作体制が画面から感じられて、インディペンデントを続けている原動力になっています。

―― アメリカで映画を学んだことで映画の見方が変わったところはありますか?

監督写真

インタビュー当日には、アップルストア銀座で両監督が出演するトークイベントが開催された(左:高橋監督・右:三宅監督)

高橋:ぼくは興味本位で映画の授業を受けはじめて、まず最初の学期で学んだのが映画を分析していくことだったんです。映画というのがどういうパーツで成り立っているのか、たとえばライティングであれば「ひとつの画の中でキーライトがこうなって、光が一番当たっているところがどういう意味があって」というような分析をするわけですよね。ぼくはそれまで映画をパーツに分けて微分して、多角的に観ていくという見方をしたことがなかったんです。なんとなく流れで映画を観ていたので、映画というのはそういうふうにひとつひとつの要素に作り手の明確な意志が反映されているんだってことを知ったときは、ほんとに目からウロコでしたね。それで映画がなおさら面白くなって、それを教えられたときに180度変わりましたね。

三宅:ぼくも高橋さんの話に近いかもしれないんですけど、実際に学ぶまでは、映画というのは監督というすごい才能の持ち主がひとりいて作っているみたいな意識があったんですけど、その意識はまったく変わりましたね。経験と技術というんですかね、脚本があったらその脚本を成立させるためにみんなが動いていて、監督はそれに束縛される度合いがほかのクルーよりも強いみたいな、そんなようなことが身に染みてわかりました。ぼくはいまでも「映画をやりたい」って人がいたら、映画を勉強することを勧めるんですよね。学ばないと映画監督になれないってことは絶対ないと思うんですけど、学べることってたくさんあると思うんです。逆に、ぼくも学ぶ前は学ぶことはたくさんあるとは思っていなかったんですよ。機材があってカメラがあったら撮れちゃうみたいな意識だったんですけど、学校に入ったらいろいろ学ぶことがたくさんあって、それは学びはじめてわかったことですよね。

―― 留学中にはフィルムでの映画作りを学ばれたそうですが、フィルムを学んで得たことを聞かせてください。

高橋:ぼくは、決定的に映画作りの魅力にとりつかれたのは16mmフィルムを回したときなんですよ。それは映るかどうかもわからなくて、露出だとかフォーカスだとかフィルムのタイプだとかカメラの特性とか、そういう教えられたことを全部わかった上で「とにかくやってみろ」と。それで結果は現像してプリントを観てみないと成功しているかどうかもわからない。そういう不確実なプロセスを踏んで初めて映っているのがわかるという緊張感があるんです。それで、ぼくは初めてプリントが上がってきたときに、映っていたものが自分の予想を越えていたんですよ。そこで「なんてフィルムは素敵なんだ」って取り憑かれたんですよね。その魅力って絶対的で、ビデオしかやったことのない人はそれはたぶんわからないと思うんですよ。ぼくは予算の都合でビデオでやってはいますけど、いまだフィルムでやりたいって気持ちはすごく強いんです。それがベースにはなっています。

三宅:フィルムで学んだことってふたつあるんです。ひとつは、最初の練習はリバーサルフィルム(ネガが存在しないフィルム)でやるんですけど、1回撮ったらそれだけなんですよ。だから、たとえばひとつのシーンがあって、そのシーンをもう1回出したいと思ったら、同じことをもう1回撮らなきゃならない。コピー&ペーストができないから、その1カットを撮るっていうのがすごく大事なんですよね。そのときはフィルムで最終形までやっていたので、それこそクレジットを出すときには自分の名前を書いて撮影するわけですよ。そういうのをやっているから、いまだに1カットを大事にするっていうのはあると思うんですよね。もうひとつは、ビデオだと押しちゃって回っちゃったってことがあり得るんですけど、16mmのカメラだとシャカシャカシャカって音がするんですよね。だから回っている間はすごく集中するというか、あの回っている感覚はちょっとビデオだと味わえない感じかな。しかもけっこう高いんですよ(笑)。3分間を撮るのにそれだけで何万円もかかっちゃうんですよね。400フィートでも10分もなくてビデオみたいに撮れないので、400フィートのフィルム1巻で映画を作っちゃおうと考えたりもするんですよね。だから時間が限られているっていうのもフィルムならではなんじゃないですかね。

高橋:回すのにどんどんお金が消えていくっていう感覚はありますよね。シャカシャカシャカって音がどんどんお金が消えていく音に聞こえる(笑)。つぎ込んだ魂が吸い込まれていくような、あの感覚は特殊ですよね(笑)。だから、ワンカットを回すまですごい時間かけるし。

三宅:リハーサルを綿密にやりますよね。ビデオだったら「失敗してもいいから本番行っちゃう?」っていうのがあるんですけど、フィルムの場合はそれがないんです。「もうちょっと完璧にしてからやろう」とか、なにもかも用意周到に準備万端になるとか、そこは違いがあると思いますね。

―― 今回上映される2作品も含めて、ビデオでの作品作りもなさっていますが、フィルムでの経験が活きているところはありますか?

高橋:ぼくはまずフィルムルックにこだわって、どんなときでもなるべくフィルムに近づけたいってところはあるんです。それは自分だけではできなくて、技術を持った人が集まったときに可能になるので、カメラマンも含めてすごく重要ですし、そこはこだわってやっていますよね。

三宅:ぼくはいまでも、逆にビデオが難しいと思っているんですよ。うまく説明できないんですけど、ビデオってけっこういろいろなことで影響されるんですよね。ぼくは撮影助手出身なので、フィルムだと「この光でこの露出でこのプロセスだとこうなる」というのがライトメーターで大体わかるんですよ。でも、ビデオだと同じロケーションで撮っているのに違う角度から撮ったら色が変わっちゃったりするんですよね。フィルムのほうがシンプルなんですよ。映らないものは映らないってわかりますし。ビデオのほうがいろいろなことができるんですけど、いろいろなことができる分、難しいんですよね。

高橋:結局、ビデオってすごく人工的なものなので、そこは決定的に違いますよね。フィルムって、光が入って、そこで化学反応が起きて、焼き付けられるというだけのものなんですよ。ビデオの場合はそこをいろいろ解析して人工的に作り直すものなので、そこはぼくたちのアナログの感覚とかけ離れちゃうんですよね。フィルムだと人間の眼に近いんです。

―― 逆に、フィルムの経験がある上でビデオに感じるメリットはありますか?

高橋:まず安い、長く回せる(笑)。あとは編集ですよね。編集は楽です。

三宅:やっぱり安いというところですね(笑)。あと、アクセスしやすいので自分で所有できるってのはひとつあって、なにかあったときに撮りたいっていうのはビデオだからできるところはあると思うんです。ぼくはフィルムルックではなくてビデオはビデオの作品っていうのも面白いなって思っていたりはしますし、安さだけではなくていろいろなことは試せますし、ビデオの面白さはあると思います。逆にビデオのよさはまだわかっていないのかもしれません。

「みんな断片的な情報で人を判断してしまう。それでも本質を見てほしい」(高橋)

―― ここからはおふたりそれぞれの作品についてお聞きしたいと思います。まず、高橋監督の『ロックアウト』は、どのようなきっかけで発想された作品なのでしょうか?

高橋:いま、ぼくは日本の現状にすごくジレンマを感じているんです。雇用問題であったりとか、生活が苦しくなっている人が増えていますよね、自分も含めて(笑)。それは『ロックアウト』の主役をやった園部貴一さんもそうで、お互い食っていくってことにあまりいい状況が見つからないところがあったんです。それはぼくたちだけの問題じゃないと思うし、それがいろいろな問題に発展していて、自殺率が高かったりするのもそことつながっている問題だとぼくは前からずっと感じているんです。みんな苦しい状況に追い込まれているからいろいろな問題が起きているんじゃないかという、世の中への疑問の投げかけですね。そして、なにか希望がそこに見出せないか、ポジティブな方向にいくことはできないのか、それをなんとかして改善したいという、ひとつの投げかけですよね。それがきっかけです。

―― 作品を拝見して「こういう見せ方をすると観客はこう思うだろう」というテクニックによって、観客をある種のトリックにかけている作品であるように感じました。

高橋:先ほどお話したほかに、もうひとつテーマとして“偏見”というのがあるんですよ。人ってみんな断片的な情報で人を判断してしまう。ぼくは常にそれを感じていて、自分自身がすごく誤解されることもありますし、ぼくだけじゃなくてそういう局面をすごく見ているし。それってひとりひとりが見方をちゃんとして視野を広げようとすれば解決できることなのに、なかなかみんなそれをしようとしないんですよね。だけど、それでも本質を見てほしいというのがぼくの願いで、本質を見ることの障害って実は自分たちで作り出したものじゃないのかという想いがあるんです。だから、トリックになっているのはそこを問いたいということです。「こういうふうに見えたとき、あなたはそれをどう判断するの?」ということで、別に「こういうふうに思ってくれ」ということではないんです。そこまで誤解させるようなトリックをたくさん散りばめてはいないはずなんですけど、最後まで「これはこうなんだ」というのがわからないようにしたいと思っていたんですよ。なぜかというと、本質を見てもらいたいから。それは意図していました。

―― もうひとつ感じたのが、この映画の内容って他人事ではないなということなんです。最近はそれこそ歩いているだけで職務質問を受けるとか、子供がひとりでいるから心配で声をかけたら不審者扱いされるとかの話もありますし、ほんとにいつ自分の身に起こっても不思議じゃない話だなと。

『ロックアウト』スチール

『ロックアウト』より。園部喜一さん演じる男・広(左)は島田岳さん演じる少年・慶太と出会う

高橋:それも入っています。ぼくは何度も職質されていますから(笑)。たとえば仕事がすごく遅く終わって、ただ単に牛めしが食いたいってだけなのに止められて「なんでぼくなんだ!」って(笑)。もう面倒だから警官がいると回り道しますよ(笑)。

―― その偏見の問題とか雇用問題も含めて現在の日本を反映している内容だと思うのですが、その脚本をもう3年くらい前に書かれているんですね。

高橋:脚本自体は2年半前くらいですが、その前からアイディアとしてはあって、2003年に『Falling life』という短編を撮っているんですよ。そのときは日本の自殺率が世界一だったり、イラク戦争が起こった年だったりして、そのときの問題はいまだに解決されておらず、その映画を撮ったときから問題意識として変わっていないんです。

―― 監督が映画で描いた状況に現実が近くなってしまっているというところはありますね。

高橋:たぶん、気づいている人はとっくに気づいて動いていると思うんですけど、世の中って早く気づいた人が警鐘を鳴らしているのに、なかなかストレートに反応できない。特に日本は社会的な流れにならないとみんながついてこないんですよね。さっきの偏見の話にもつながるんですけど、ついていくのが前提になっていて、なかなか自分で判断するとか自分で情報を選択することができない。それは文化なのか国民性なのかわかりませんし、深く考えると教育とかにもつながっていくんでしょうけど、なにかに準じないと判断できないっていうところを日本人はいまだに持っている気がするんです。世の中の動きを見ていると、昔よりはこの10年とかでもよくなっているとは思うんですけど、なかなか追いついていかないというか。

―― 映画を観ていて、数年前の秋葉原の事件を連想したんです。あれはまさに雇用とか偏見が背景にあると言われていて、この映画で扱っているような問題が爆発してしまったケースではないかと思ったんです。

高橋:ぼくが思うのは、世の中で明るみになって犯罪者として認知されている人たちだけではなく、誰でも持っている性質だと思うんですよね。誰でもそうなり得るんだってことを認識するところから始めないと抑制ってできない。人に言われて抑制なんてできないし、自分から抑制しないとできないと思うんです。そういうことを他人事じゃないなって思ってもらえたら、ぼくはそれで充分なんです。それはひとりひとりに絶対あるものだし、同時にぼくはそれは抑制できるものだと信じたいので、この映画を作ったんです。

―― そういう日本の現状を映した作品が、海外の映画祭ではどのように受け止められたのでしょうか?

高橋:完全に伝わっていましたね。上映のあとのQ&Aでもすごく深いところまで質問されたりして、彼らのほうが日本のことをわかっているなって(笑)。あとは、ぼくが日本人で日本で撮っているから日本映画なだけで、ぼくが日本のことしか描かないわけではなく、普遍的な内容を描きたいとずっと思っているので、それは通じると思っていますし、そう間違っていなかったのかなって思っています。

「余地があるのがいい作品だと思う。観た人に答えを出してもらうほうがいい」(三宅)

―― 三宅監督の『Lost & Found』は、駅の“落し物あずかり所”が舞台というユニークな設定ですね。

三宅:もともと、ニューヨークに行っていたときからこういう作品をやりたいと思っていたんです。ぼく自身、ほかの誰かにストレートにではなく影響されているんだなって感じることがあって「人間と人間がどこかでつながっている」ということを映画にできないかなと思っていて、ニューヨークにいたときに『116』という貸倉庫が舞台の作品を作ったんです。ニューヨークだと貸倉庫ってすごくポピュラーなんですよ。住むところが狭いのでみんな貸倉庫に荷物を入れていて、ぼくの知り合いにお金持ちの人がいて、その人のお母さんの荷物を運ぶのを手伝いに倉庫に行ったんです。そのお母さんは骨董品とかを倉庫に入れているんですけど、そのときに隣の部屋から出てきたのがアラブ系の貧しい移民の人で、外で商売をやるリヤカーみたいなのを倉庫に入れていたんです。そうやってお金持ちの人と貧しい人が隣りあったところに全然違うものを入れているというのはニューヨークの特質なのかもしれないし、それがすごく面白いなと思って、貸倉庫の管理人を主人公にして、貸倉庫に集まるいろいろな人が出てくる長編を作ろうと考えていたんですよ。ただ、お金の問題でそれは実現できずに、そのエピソードをひとつだけ切り出して『116』という作品を作っていたので、自分が長編を作るチャンスが来たらそのテーマでやりたいとずっと考えていたんです。それで、日本で短編の映画(『遺影』)で賞を貰って、山形国際ムービーフェスティバルのスカラシップとして長編を作れるってなったときに、それをやってみようと思って考えたのが“落し物あずかり所”だったんです。落し物あずかり所って、いろいろな人が偶然出会ってしまったり、その人自身は出会わなくても自分が忘れたものと誰かほかの人が忘れたものが隣同士に並んでいる可能性のある場所ですよね。これはいいアイディアかなと思いまして、脚本を書いた荒井(真紀)も忘れ物をメチャメチャする人なので、彼女のエピソードとぼくのエピソードを合わせて作品にしたというかたちです。

―― そこで、舞台として駅の落し物あずかり所を思いついたのはなぜだったのでしょうか?

三宅:前からちょっと引っかかっていた場所なんですけど、なんでかと言うとちゃんとした説明を思いつかないんですよね(笑)。駅自体も自分の中では魅力のある場所で、人が行きかってすれ違う駅という場所は面白いとずっと思っていたんです。それから、これは後付けなんですけど、話を考えていくうちに“落し物あずかり所”のことを英語で“Lost & found”と言うことがわかったときに、これはすごくいいなあと思ったんですよね。「失くして見つける」ってだけの言葉なんですけど、外人の方にはダブルミーニングで伝わると思いますし、それが自分の描きたいストーリーをストレートに表している言葉だと思ったんです。

―― この作品は、主人公の富樫を演じた菅田俊さんの存在感がすごく大きいなと感じました。

『Lost & found』スチール

『Lost & found』より。菅田俊さんが演じる主人公・富樫

三宅:菅田さんはプロデューサーからの推薦があって決まったんですけど、実はぼくは富樫は人生に疲れた感じのある人をキャスティングしようと考えていたので、菅田さんはその感じとは違ったんですよね。ぼくは60歳という設定で考えていたんですけど菅田さんは50代なので、年代的にも違っていましたし。ただ、映画って自分のイメージと違った人を使うほうが面白いと思うんですよね。最近ですと『ダークナイト』(2008年・米/クリストファー・ノーラン監督)のゲイリー・オールドマンとか、いつも狂気で悪役をやっている人が善良な警官をやったりという、いわゆるタイプキャスティングじゃないキャスティングってすごく面白いと思うんですよ。それと同じで、菅田さんの作品をいろいろ拝見させていただいたときに、菅田さんはヤクザの組長みたいな役が多いし、身長が190センチあって見た目も強そうなんですけど、強そうな人にまったく逆の役をやってもらうと面白いんじゃないかと思ったんです。あともうひとつ、黒沢清監督の『ニンゲン合格』の菅田さんがすごくよかったので、この役を演じた方ならできると思ったんです。実際にやっていただいて、思っていた以上に菅田さんはよかったですね。

―― 菅田さんが演じたことで、富樫という役の位置付けが最初に監督が構想されたのとはちょっと違ったものになっているのではないかと思ったのですが?

三宅:それはあると思いますね。最初はもっと達観した感じで、人生をすべて悟ったような役を考えていたんですね。相馬という登場人物が出てくるんですが、富樫を菅田さんがやることで、相馬と富樫の関係が見えやすくなったと思うんです。それは意外でしたし、よかった点だと思います。

―― それから、富樫の映画の中での役割が途中で変化しているように感じました。

三宅:それは撮るときからけっこう意識していまして、最初の菅田さんの登場シーンでは撮影をやってくれた八重樫(肇春)と口論になったくらい「真っ暗に撮ってくれ」って言ったんです。できるだけ姿を見せないようにして、声も小さくて存在感がなかった人が段々存在感が出てくるようにというのは意識していました。最初は主人公が誰なのかわからないように始めて、どちらかというと若い駅員の視点で描かれているんですけど、ある時点で逆転するというのは狙いだったんですよね。それは菅田さんに決まる前からありました。

―― 海外の映画祭で上映した際にはどのような反応があったのでしょうか?

三宅:高橋さんと重なっちゃうんですけど、海外のほうがいろいろなことを理解してくれたんじゃないかなって思うんです。自分がびっくりするくらい本質をとらえた意見をもらったんですよ。たとえば、映画のエンディングはプロデューサーと意見が分かれたところで、最終的にはぼくの意見をとおしているんですけど、海外で上映したときに「あのエンディングで終わったのがすごく納得がいった」と言われて、ぼくが意図していなかったようなことまで読み取ってくれていたんです。ぼくはすごく驚いて「すみません、そこまで考えていませんでした」って(笑)。海外の人のほうが「失くして見つける」ということの本質を見つけ出そうとしてくれているような気がしたんですね。想像していた以上に本質を突いたことをいろいろと質問されて、ちゃんと観てくれているんだなと思いました。質問に答えられないことがたくさんありました。

―― エンディングも含めてですけど、あまり個々のエピソードについてはっきり「こうだ」という解決を描いていませんよね。

三宅:自分の中では、想像力が広がるというか、余地があるのがいい作品だと思うんですよね。だから自分も作品を作るときは観た人に答えを出してもらう作品のほうがいいなというのがあって、結論みたいなのは描かないほうがいいのかなと思っていました。

―― いまの映画というか映像作品って、なにからなにまで説明してしまって、感情までセリフで言っちゃうような作品が多くなっていますよね。そういう風潮の中では、こういう映画は珍しく感じられるのではないかと思いました。

三宅:海外だとスリーアクト・ストラクチャー()と言って、アクト1、2、3とあって、ハリウッドとかではアクト1をなるべく早く終わらすのがいい映画って言われているんですよ。たとえば『ソウ』(2004年・米/ジェームズ・ワン監督)という作品はアクト1がないんですよ。だから観客はすぐ引き込まれるし、プロデューサーが脚本を読んだときにもすぐ引き込まれるんですよね。日本でも言葉は使われていなくても同じようなことはあって、登場人物の紹介なんかはなるべく早く終わらせて早くアクト2に入る映画のほうがいいというのはあると思うんですよね。でも、高橋さんの作品もそうだと思うんですけど、ぼくの作品はなかなかアクト2に入らないというか、どこで入ったのかよくわからないんですよ(笑)。だからけっこう我慢を強いているかもしれないし、なにが起きているのかわからなくて観客に考えさせる映画というのは、いまの大きな流れからは違うのかもしれないなと思ったりはするんですけど……高橋さんはどうですか?(笑)

高橋:ハリウッドの方程式というのがあって、ぼくたちはそれを学んでいるんですよね。ぼくも今回それをやろうと思ったんですけど、そうならなかったんです(笑)。だからプロのプロデューサーの人たちが観ると、みんな「始まりが遅い」って言うんですよね。でも、ぼくは始まるまでのキャラクターの描写の部分が重要で、そこがなかったらこの映画はこの映画にならないって。

三宅:お客さんにもそういうことは求められるんですよね。ただ、考えないといけないというのも映画的な体験だとぼくは思うんですよ。わかりやすくするとあとに残らないんじゃないかと思うんです。

高橋:そう、ジェットコースター・ムービーみたいなのって残らないと思うんですよ。なんか面白かったけど、映画館を出たら全部忘れちゃったみたいな(笑)。もちろんわかりやすい作品があってもいいと思いますし、興行的に売るということはとても大事なことだと思います。ぼくたちがやっているのはそういう作品とは違いますけど、たぶん三宅さんもぼくも同じで、決して観客のことを考えずに監督のエゴで作っているわけではなくて「ぼくたちはこういうタイプの映画に影響を受けてきたし、教えられてきた」というアプローチをしているんです。

  • :シド・フィールドの著書によって広く知られるようになった脚本の構成術。日本語では三幕構成または三部構成と訳される。アクト1で登場人物や状況が説明され、アクト2で物語が展開し、アクト3で解決へと向かう

「“そこに飛び込んでみる”ということが重要だと思う」(高橋)

―― おふたりが海外の映画祭に参加したきっかけはなんだったのでしょうか?

高橋:ぼくの場合は、前の短編(『Falling life』)が日本の映画祭に応募してダメだったときに、カナダ人の友人が「海外には出した?」と言ってきたので「出してない」と言ったら「俺が字幕やるから出してみろよ」と言われたところからですね。それでスペインとフランスとニューヨークの映画祭で受かって、スペインに行ったんですよ。ほんとに田舎町で小っちゃい映画祭でしたけど、すごく楽しくて、観てくれる人がここにいるってことを肌で感じて、これはもうどんどん出したほうがいいなって思ったんです。あとは、日本でいきなり「評価してくれ」と言っても門戸は狭いけど、もっといろいろな国の評価が得られたら可能性があるかもしれないから、海外から逆輸入しようというチャレンジみたいなところはありましたね。

三宅:ぼくは、むしろ人に観てもらうきっかけって映画祭しか選択肢がないと思っていたんですよね。業界も知らないですし、コネもないし、映画祭で上映されたら人に観てもらえるし、そこからチャンスが広がるかもしれないというのがあったので、ぼくの中では日本の映画祭も海外の映画祭も関係なくて、映画を作っている目的が最初から映画祭だったんですよね。『Lost & Found』はスカラシップ作品として山形国際ムービーフェスティバルから資金を出してもらって作っているんですけど、映画祭に出させてほしいという話は最初からしていて、そこは山形ではあまりサポートできないというので「自分でやるので出していいですか」って言っていたんです。やっぱり、自分は映画祭のほかに自分の映画を観てもらう機会がないんですよ。だから映画祭が映画を作るモチベーションになっているし、そこは必死になってやっていますよね。

―― 海外の映画祭への参加というのはかなりハードルの高いことだと思うんですけど、そこを飛び越えるときに大事なのはなんなのでしょうか?

高橋:ぼくは、壁になっているのは英語だけだと思うんですよ。応募用紙とかも基本的に同じなので、英語が読めるか読めないかというだけのことだと思うんです。いまはインターネットでリサーチもしやすいですし、英語というハードルさえクリアすれば誰でもできることなんです。そのハードルは自分で乗り越える必要もなくて、得意な人に頼むとかもできるでしょうし、ぼくだってそのカナダ人の友達がいたからできたことですし。そうやって協力してくれる知り合いを見つけるところから始めなければならないというところはあるかもしれませんが、そこさえ乗り越えてしまえばみんな同じだと思うんです。

三宅:映画を作っても映画祭に出さない人っていっぱいいるんですよね。ぼくなんかはそういう人を見ると「なんで出さないのかな?」って、もったいないなと思うんですよ。高橋さんも言われたように、別に英語ができなかったら誰かに頼めばいいと思うんですよね。応募だって1個フォーマットを用意すればいろんな映画祭で使えるし、そういうことも知らない人が多いのかもしれないんですけど、あんまりハードルは高くないはずなんですよね。

―― 日本の作品を海外に持っていくときに字幕の問題がありますが、おふたりはどのようにクリアされているのでしょうか?

監督写真

アップルストア銀座でのイベントでも、海外の映画祭への出品について、現地の映像なども交えながらトークが繰り広げられた

高橋:普通に字幕を専門の人に頼むと、50万円くらいかかるらしいんです。ぼくもそのカナダ人の友人がいなかったら字幕はちゃんとできなかったと思うので、それはでかいですよね。自分で辞書を調べて1個1個やっていってもおかしな言葉になる可能性もあるので、誰に頼むかっていうのは重要なところではありますよね。だけど、そういうネットワークを少しでも広げようという取っ掛かりを見つけられていない人が多いと思うんですよね。アクションを起こしてみてそれでダメだったら、どこまでできてどこがダメだったのか見えてくるものがあると思うんです。だけど、そこさえやっていないと思うんですよ。映画祭に出す出さないも同じなんですけど、ぼくはアクションを起こす起こさないに帰結する気がしているんです。たとえば、英語だからぼくは友達に頼めたけど、もしスワヒリ語で出さなくちゃならなかったら頼める人をどうやって探すのか、それを自分で考えるところから始めることが重要だと思うんで「そこに飛び込んでみる」ということが重要だと思うんですよね。たしかに簡単なことではないですが。

三宅:ぼくは50万円かかかるということすらいま知ったくらいで(笑)。実はぼくも字幕は友達に頼んでいて、その人の苦労を少なくするために自分で下訳をやるんですよね。一応自分で全部やった上でチェックしてもらっているんです。でも、努力すればそれもクリアするためのいろいろ方法はあると思うんですよね。いまはmixiとかもあるから、探せば翻訳の勉強をした人で映画が好きな人とか見つかるかもしれないし、1回捜してみたらいいんじゃないかなと思うんです。実は、山形のスカラシップで映画を作ったほかの人たちから相談されたことがあるんですよ。それでいろいろ説明して勧めたんですけど、実際に出した人は少ないんですよね。だから、たしかにそこは難しいんだなとは思います。

―― 翻訳の過程での苦労というのはありますか?

高橋:ぼくも自分で下訳をやってからカナダ人の友人にチェックしてもらってというかたちだったので、彼と「ここはこういう表現のほうがいい」とか、彼が訳したものに「いや、ここはほんとはこういう意味なんでこうなんだ」とか、いろいろ説明して修正していくところはありますね。

三宅:ストーリーとかプロットはユニバーサルだと思うんですけど、言語っていうのはローカルなものなので、必ずしも日本語のセリフが100%伝わらないところはあると思うんですよね。『Lost & Found』でも、字幕が日本語のセリフの訳になっていないところはあるんです。英語がわかる人が「こういう場面ではこう言わないよ」と言っても、ぼくは「ここはこういう意図だからここは譲れない」とか、でもそうすると「それはわからない」と言われたり、どこまで行っても平行線なところはありますよね。日本人はわかるけど向こうの人はわからないとか。

高橋:そうですね、機微みたいなものは伝わりづらいと思うので、ほんとはウィットを盛り込んだセリフなのに、英語では伝わらないから普通のセリフになっちゃうとか、どうしても訳せないところは出てきちゃいますよね。

三宅:それはしょうがないんですよね。ぼくたちがハリウッド映画を観ていても、セリフが韻を踏んでいたりとか意味がふたつあったりするのが字幕だと伝わらないところはありますし。

高橋:もったいないと思うところはありますよね。英語で聞いていて「ああ、そこ面白いのに」って。

三宅:「それじゃ笑えないよ」っていう(笑)。それは仕方がないので、自分たちがやるときには、それを越えてストーリーをわかってもらって共感してもらうということですよね。映像ってやっぱり映像なんで、セリフも大事なんですけどセリフじゃないところから読み取ってもらえることが自分たちが思っている以上に大きいんですよね。海外でお客さんの感想を聞いて、ここまでわかっているんだって、それはすごく不思議に思います。映像って言語なんですよね。逆に、説明を駆使したら「え、そんなこと言ってた?」とか、あんまり聞いてもらえてなかったりするんですよね(笑)。

―― では、最後になりますが劇場公開を前にしての心境をお願いします。

高橋:初めてのことなんで、ドキドキしている暇もなく必死です(笑)。

三宅:映画に興味を持ってもらいたいのはもちろんなんですけど、この企画自体にもっと興味を持ってもらいたいなと思っているんです。自主的に作った作品が日本の映画館で公開するところまで結びついたということを共有したいなというか。これは大きな実験場になるんじゃないかと思っているんです。

(2010年2月14日/銀座にて収録)

作品スチール

ロックアウト

  • 監督:高橋康進
  • 出演:園部喜一 緒方美穂 宮下ともみ 木村圭作 島田岳 ほか

2010年2月27日(土)よりシネマート六本木にてレイトショー(『Lost & Found』と日替わり上映)

『ロックアウト』の詳しい作品情報はこちら!

作品スチール

Lost & Found

  • 監督:三宅伸行
  • 出演:菅田俊 畑中智行 坂田雅彦 寉岡萌希 藤井かほり ほか

2010年2月28日(日)よりシネマート六本木にてレイトショー(『ロックアウト』と日替わり上映)

『Lost & Found』の詳しい作品情報はこちら!

スポンサーリンク