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『いぬむこいり』片嶋一貴監督インタビュー

 代々“犬婿入り”の伝説が伝わる家に育った小学校教師・梓は、神のお告げを受け東京からイモレ島へ向け旅立つ。沖之大島で選挙戦に巻き込まれ、無人島で犬男と出会った梓は、ついに戦争が続く島・イモレ島へとたどり着く……。
 『アジアの純真』『たとえば檸檬』など、鋭いエッジを持った作品を送り出してきた片嶋一貴監督は、伝承民話“犬婿入り”をモチーフに、4時間を越える新作『いぬむこいり』を完成させました。
 これまでも片嶋監督の作品に出演してきた有森也実さんを主演に四章構成で描かれる『いぬむこいり』は、独自のエロティシズムと現代へのシニカルな視点が光るカオティックな作品。この衝撃作はいかにして生まれたのか!?

片嶋一貴(かたしま・いっき)監督プロフィール

栃木県出身。大学卒業後に若松プロに参加、助監督を経て1995年に『クレイジー・コップ 捜査はせん!』で監督デビュー。監督作に『ハーケンクロイツの翼』(2003年)、『小森生活向上クラブ』(2008年)、『アジアの純真』(2011年)、『たとえば檸檬』(2012年)、『TAP 完全なる飼育』(2013年)など。また、プロデューサーとしても鈴木清順監督作品『ピストルオペラ』(2001年)、『オペレッタ狸御殿』(2005年)や『戦争と一人の女』(2013年/井上淳一監督)など多くの作品を手がける。映像制作会社・ドッグシュガー代表。

「“異種婚姻譚”というのは人間社会の教訓みたいなものを描いたりする」

―― 『いぬむこいり』はどういう経緯でスタートしたのでしょうか?

片嶋:もともとは『アジアの純真』が完成したころ(※2009年)に、(『アジアの純真』で)脚本を書いた井上(淳一)に「新しいことをやろうぜ」なんて言っていたら、今回の『いぬむこいり』の脚本家で井上の弟弟子にあたる中野太が「こんなのがありますよ」って、多和田葉子さんという作家の「犬婿入り」という小説を紹介してくれたんですよ。1992年の芥川賞を受賞した作品で、中野は大学時代からずっと映画化したいと思っていたらしいんです。それが面白い短編だったので、多和田さんに許諾も得ないままシナリオ化して、シナリオができてから多和田さんの連絡先を調べて「勝手にこんなことをやってしまいました」みたいな連絡をしたんです。小説は優れた文芸作品で「これを映画化するにはどうしたらいいんだろう」と思うくらい不思議な話なんですけど、中野がけっこううまく脚本化したんですよね。原作の面白いところを全部取り入れた上でうまいこと映画のシナリオになっていたので多和田さんも喜んでくれたんですが、いろいろあって映画化権が獲れなかったんですよ。それで、もともと犬婿入りの話というのは「鶴の恩返し」とかと同じようなもので伝承民話として日本中に伝わっていて、多和田さんがそれにインスパイアされて文芸作品にしたという流れはわかっていたので、もう頭に来たから多和田葉子さんと(小説の出版元の)講談社にケンカを売ってやろうみたいな態度で(笑)、同じタイトルでまったくのオリジナル作品を1年かけて脚本家と一緒に作り上げたという流れでしたね。そして映画ができて、初号の何日か前に講談社に「こんなのができあがります」なんて連絡したら向こうが驚いて、ちょっと呼び出されまして(笑)。向こうは紛らわしいからタイトルを変えてくれというようなことを言ってきて、タイトルに著作権がないということはわかっていたので押し通すこともできたんですけど、最終的にはこっちが平仮名にして決着しました。

―― 映画の『いぬむこいり』はいろいろな要素が詰め込まれた作品となっていますが、そういうアイディアはどのように生まれていったのでしょう?

『いぬむこいり』スチール

『いぬむこいり』より。有森也実さん演じる主人公・梓(左)と、バンド“勝手にしやがれ”の武藤昭平さんが演じるアキラ

片嶋:ぼくらは多和田さんの小説を読んで、そこから異種婚姻譚みたいなことに興味を持って、多和田さんも読んだであろう「犬のフォークロア」(大木卓著「犬のフォークロア 神話・伝説・昔話の犬」1987年刊)という本を読み返すところから始まったんです。それで、オリジナル作品をぼくと中野でゼロから作りあげるとなると、やりたいことをいくらでも詰め込めるような状態になって、こういうものになったということですね。やっぱり異種婚姻譚というのは犬のほかにも“蛇婿入り”だとか“猿婿入り”だとかいろんな民話がたくさんあって、そういった伝承民話というのは残酷さもあわせ持っていて、なにかしら人間社会の教訓みたいなものを描いたりするものが多いんですよ。だから、多様な文化というか感覚というか、そういったものに触れることによって人間社会がなにかしらミックスされていって崩壊していって、そして新たな再生がある。そういう物語というのをひとつ映画にしたいというのは強く思ったところですね。

―― 映画全体としては主人公の梓の「宝物探し」が軸となっていきますが、なにかを探して旅をする女性の物語にしたのはどんな発想からだったのですか?

片嶋:第一章、第二章、第三章、第四章とみんな場所が違ってくるわけですけど、最初は主人公が東京で生きづらい状態であって「違う場所に行けばなにかがあるだろう」みたいなことで神のお告げに導かれてイモレ島を目指して、行くとそこは人間の欲望が渦巻くような場所で選挙戦をやったり、果ては戦争の島まで行くというようなことで、主人公の内面を掘り下げるとかそういうことよりも、主人公が狂言回しのようにそこに突入していって、そこの人間もしくは人間社会の渦巻くような差別や偏見や欲望といったようなことにさらされて、さらされることによって本人もなにかしら変わっていくというのはストーリーとして面白いと思いました。まあ、言ってしまうとブラジルの作家の有名な小説で「アルケミスト」(パウロ・コエーリョ著)というのがあるんですけど、それも宝探しの話なんですね。そういう流れを入れたら面白いんじゃないかと……。脚本家と一緒に一から物語を作っていくと、記憶に残っているどこかで読んだ本とかどこかで観た映画とか「あのときのあれみたいにしよう」というような話になるんですよね。「アルケミスト」はけっこう参考になりました。

「いつか大河ドラマ的なものをやってやろうという気持ちはありました」

―― ちょうどお話に出ましたが、映画全体が四章構成というのはどの段階で決まったのでしょう?

片嶋:だんだんやっていくうちに決まっていきましたね。東京から始まって、第二章はああいう地方都市ですよね。地方都市の利権ですとか、最初のころ中野が書いてきたのは自警団の話だったりして、自警団の話になったりするとまた差別とかも出てきますよね。やっていくうちに自警団の話ではなくなったんだけど、地方都市の欲望渦巻くゴタゴタというのを第二章でやろうと。それで、やっぱり犬婿入りの話ですからどこかで犬ときちんと出会わなくてはならないから、それを三章の無人島にしていこうとか、そういうことがだんだんと決まっていく。そうすると、第二章と第四章というのは似たようなものでもあって、そこに大きなクッションとしての第三章が入り、欲望渦巻くものの最終的な巨大なかたちが戦争だから、第四章は戦争の島にしようみたいに、1年かけて作り上げていきました。

―― 四章構成になると、4時間以上という上映時間も必然のように脚本の段階で決まっていくわけですね。

片嶋一貴監督インタビュー写真

片嶋:まあ、今回は長尺のものが作りたいというのはあったんですよね。それは『アジアの純真』が白黒だったのと同じで、あのときは散々「なんで白黒なんですか?」って訊かれたけれども、言ってしまえば「白黒映画が作りたかったから」ということでね(笑)。それと同じように、ぼくはわりと長尺の映画が好きで、『1900年』(1976年・伊,仏,西独/ベルナルド・ベルトルッチ監督:316分)とか『アンダーグラウンド』(1995年・仏/エミール・クストリッツァ監督:171分)とか『ドクトル・ジバゴ』(1965年・英,米/デイヴィッド・リーン監督:197分)とか、ああいうのがすごい好きなんですよ。もちろん『牯嶺街少年殺人事件』(1991年・台湾/エドワード・ヤン監督:初公開版188分・完全版236分)も好きな映画だったんだけど、リバイバルしてみんなが褒めだしてるからもう褒めるのやめようと思ってるんだけどね(笑)。だから、大河ドラマ的なものが好きなのかもしれないけれど、なかなかそういうものは作れないじゃないですか。だからいつかやってやろうという気持ちはありました。台本が上がったときに2百何十ページだったから、普通に考えたらこのまま行けば4時間は行くなと。ただ、編集すると縮めたほうが面白くなるときがあるから、それで3時間何分のものになったら、それはなったらなったでいいやというようなところでしたね。

―― 現実的な話として、4時間越えとなると映画館で上映しにくくなるということはありますよね。今回、監督はプロデュースもつとめられていますが、プロデューサーとして4時間という長さに躊躇するようなところはなかったのでしょうか?

片嶋:それはなかったですね。ぼくはプロデューサーやっているときと監督やっているときで人が違うと言われたりするんだけど、今回のようにプロデューサーと監督どっちもやってると、自分の作品をやっているときには監督が勝ってしまうんでしょうね。たとえば、前にやった『TAP 完全なる飼育』(2013年)だと、セディックインターナショナルという製作会社がきちんとあって、プロデューサーがエンターテイメントを望んでるわけだから、当然ある種の制約というか条件はあるわけです。だけど今回はそういうことがなくて、わりとやりたいようにできる環境ではあったんです。だから、もちろん4時間の映画は劇場が嫌がるというのもわかっていましたけど、こういうものが作りたいというのが先に立ちましたね。

―― 少し話題が変わりますが、今回は撮影をベテランのたむらまさきさんが担当されていますね。たむらさんにお願いした理由はどんなところでしょう?

片嶋:いままで何本か映画を作ってきて、みんなカメラマンは年下で、ぼくが「あれやれ、これやれ」みたいなパターンで撮ってきたんだけども、巨匠・たむらまさきとやるということ自体、そうした態度ではいられないわけじゃないですか。どこか遠慮しつつ、一緒に「こんな画を作っていきましょう」みたいにやっていくのは見えていたわけです。かつてはそういったベテランの人たちとやる意味をあんまり感じていなかったんだけど、今回は一緒にやってみたいって思ったんですよね。絶対にいままでのようにはいかないから自分の中で新しい画作りができるんじゃないかという期待感がありました。ぼくの映画はいままでは手持ち(カメラ)が多いんですよ。でも今回はほとんど手持ちはない。新鮮でしたね。

「有森也実さんの役は“あまり演じないでくれ”とオーダーしていた」

―― 主人公の梓は、以前にも監督の作品にご出演になっている有森也実さんが演じられていますが、主演を有森さんでというのが決まったのはどの段階ですか?

片嶋:多和田葉子さんの原作で映画にしようとしていたときにも有森さんでやろうということになっていたので、それはブレもなくずっと有森さんでしたね。そもそも『アジアの純真』が終わった時点で、有森さんとか(韓)英恵とか、ぼくの映画によく出てくれるような人たちで新しい映画を撮ろうというところから始まったんで……。そしたら、脚本家の吉川(次郎)さんとやっていた『たとえば檸檬』(2012年)の脚本が先に上がっちゃったんで『アジアの純真』の次は『たとえば檸檬』になったわけです。

―― 作品を拝見すると、有森さんが梓という役にすごくはまっていると感じたのですが、脚本作りの段階で有森さんを想定して梓のキャラクターを作っていた部分はあるのでしょうか?

片嶋:それはありましたね。有森さんだったらこういう雰囲気にできるだろうという当て書き的なところがあって、その辺が現場での大きなギャップになっていって、有森さんが苦しんだというところはあるんですけど。

―― その「苦しんだ」というのは、具体的にはどういう部分ですか?

『いぬむこいり』スチール

『いぬむこいり』より。柄本明さん演じる三線屋の健吉(一番左)と、石橋蓮司さん演じるゴロツキ革命家・沢村(左より二番目)たち沖之大島の人々

片嶋:やっぱり、役を演じる上において、たとえばこの『いぬむこいり』だったら、(石橋)蓮司さんとか緑(魔子)さんとか柄本(明)さんとかベンガルさんとかは、脚本段階からある種“立っているキャラ”で、それを一癖ある役者がやると“演じる”ということではまるわけなんですよ。ところが、有森さんの梓という役は「あまり演じないでくれ」とこちら側からオーダーしていたので、有森さんは「役者が演じないというのはどういうことなのか?」みたいなことで悩むというかね。だから、どんどん素の有森さんがそのまま出ていくみたいなことになっていって、それは役者にとってある意味つらいことでもあるし、撮影期間の1ヶ月半ずっとそうやっていると、だんだんわけがわからなくなってくる。

―― それは、梓がいろいろな状況の中で戸惑いながら旅をしていくように、有森さんを戸惑わせようみたいな狙いがあったわけでしょうか?

片嶋:戸惑わせようということではなくて、そう見えていればいいんだけど、やっぱり“演じちゃう”となんかちょっと無理が出てくるんですよ。東京で生きづらくなったダメダメな小学校教師が神のお告げで行くわけですから、こちらが求めているのは自然な梓なんですよね。その自然さを演じるというのがけっこう難しくて、どこかで力が入っちゃったりするんです。それで「そうじゃない」みたいなことでやっていくとだんだん苦しい状況になってきて……。ただ、編集してみたらそういったことがあまり映っていなくて普通に見えていたのでよかったんですけどね(笑)。もちろん、力が入っちゃった部分はNGとして切っちゃっているというのはあるかな。

―― 今回は、先ほどお名前が出た石橋蓮司さん、柄本明さん、緑魔子さん、ベンガルさんと、ベテランの方々がかなりご出演になっていますね。

片嶋:みんなどこかの現場で知り合ってたりとか、こっちがファンであったりとかで思い入れのある役者さんたちだったんで、ああいう一癖ある役者がこのキャラにはまってくれないと締まらないなと思っていたし、当然ながら映画の見た目も違ってくるじゃないですか。ただ、オファーしてやってくれるかというと、それはまた難しい問題だから(笑)。最初に決まったのは蓮司さんだったんですよ。役者によっては「どこが配給するのか」とか「誰が監督なのか」とかいろいろ言う人もいるけれども、それよりもまずホンを読んで「これが自分の役か。自分がこれをやったらこうなるな、それは面白そうだな」とか、そういうことが先に立つんですよね。蓮司さんはそれに乗ってくれたんじゃないかな。そうすると、蓮司さんが出るとなれば柄本さんも興味を持ってくれて、演劇界では先輩ですからね。そういう流れができて。まあ、緑さんは別に蓮司さんが出てるから夫婦でということではなくて、キャスティングの途中で緑さんの名前が挙がってきて「おお、いいじゃん」って。そのときもう蓮司さんは決まっていたから、マネージャーが一緒なんでオファーがしやすかったしね(笑)。

―― 一方で監督の作品によくご出演になっている若い俳優さんたちも出演されていますが、ベテランの方たちとの共演で刺激になるような部分もあったのではないでしょうか?

片嶋:あったと思いますよ。パンフレットのためのインタビューや対談をやったときに、蓮司さんの息子を演じた笠井薫明が言っていたのは、今回はロケのホテルが周りになにもないところで、食事するにも1階の呑み屋しかないのでみんなそこで会うんですよ。なので、薫明が食事に行ったらそこで蓮司さんに会っちゃって、一緒に飯を食いながら、自分の家庭環境だとかいろいろなことを蓮司さんに訊かれたりして、いつの間にか親子を演じる関係になってたって……。ぼくらはそういうことはまったく知らなかったんだけども、そういう交流があったんですね。あと現場で柄本さんに「アイドルみたいな芝居するな」って怒られたりしたらしくて、それもぼくらはまったく知らなかったんだけども、そういったことがすごく勉強になったと薫明が言っていましたね。

「この映画のテーマというのは一言で言うと“祈り”みたいなこと」

―― キャストでは、主役に次ぐポジションといえるアキラ役をバンド“勝手にしやがれ”のメンバーである武藤昭平さんが演じられていますね。これだけ大きな役をミュージシャンの方が演じるというのは大胆なキャスティングかなと思いました。

片嶋:昭平に関しては、その前にある企画をやっていて、それがつぶれちゃってという経緯があって、だから知ってはいたし、ときどき一緒に呑んだりしていたんですよ。ただ、この重要な役を役者以外の人間でやるっていう発想はまったくなかったので、有名な俳優にいくつかオファーしていたんです。だけどスケジュールが合わないとか、台本を読んで「これはできない」とかで、ちょっと行き詰まっちゃって、もうこの役は俳優のキャスティングをやめようとプロデューサーと話したんですよ。そうするとガラッと発想が変わってきて「そうだ、武藤昭平がいた」という話になって、昭平に台本を読んでもらったら「やりたい」となって……。先に決まってたライブのツアーがあったのでスケジュールが大変だったんですけど、なんとかやりくりして進めました。もともとは、ぼくがプロデューサーで関わった鈴木清順の『オペレッタ狸御殿』(2005年)のとき、オダギリジョーが「片嶋さんとよく似たミュージシャンがいて、ぼくは大ファンなんですよ」なんて言っててね、そこで「勝手にしやがれ、武藤昭平」という名前がぼくの中に刻まれたんですよ。それで調べてみたら、たしかに似てると思って(笑)。そしたら、これも偶然なんだけど、ぼくが親しくしてるムーンライダーズの白井良明さんと勝手にしやがれの(当時の)マネージャーが同じ人だったんですよ。そんなこんなで「これはなんかあるな」と思って、成立はしなかったんだけどある企画を昭平でやろうという流れができたんです。だから、この前オダギリジョーに会ったときにその話をしたら、あいつも覚えていて「コメントくれ」って言ったら「いいですよ」って「片嶋監督と武藤さんを出会わせたのは俺だ」みたいなコメントを書いてくれて、いい宣伝になると思ってます(笑)。

―― 武藤さんだけでなく、ベテランのミュージシャンであるPANTAさんがご出演になっていたり、柄本明さんの役が元ギタリストという設定だったり、作品全体で音楽というのが重要な要素になっているように感じたのですが、それは意図されていたのでしょうか?。

片嶋:ぼくの映画は意外と歌を歌うシーンが必ずあったりするんですけど、なんとなく自然にそうなったんですよ。柄本さんの役が元ギタリストで楽器店を継いで三線屋をやっていて、昔はジョン・レノンにかぶれて音楽で世界を変えられるとか信じてたという設定は作ったけれど、設定を作っただけで音楽が重要なファクターになると意識したわけではないんですよね。

―― ある時代やある種の音楽が持つメッセージ性とか社会性のようなものが作品全体にあるようにも感じました。

片嶋一貴監督インタビュー写真

片嶋:昔からその手のものを聞いて育ってきたというのもあるし、やっぱりそれはなんか自然と出てきたんでしょうね。……蓮司さんの役を“ゴロツキ革命家”という設定にしているのは、ぼくらの世代はああいう団塊の世代のああいった運動とかなんだかんだにそれなりに影響を受けながらもどこかで否定しているようなかたちで育ってきていて「革命家なんていい加減なものだ」というのはどこかにあったりするんですよ。だから、普通の革命家にはしないで金に汚いゴロツキ革命家にするとか、なにかあの世代をどこかでパロディ化したいというのはあったんですよね。

―― パロディ化というと、この作品は現実の社会情勢をパロディというか皮肉っているところもありますよね。しかも映画が完成したのは1年前で脚本作りはもっと前だったにもかかわらず、公開となるいま現在の世界の状況によりマッチしてしまっている感じがします。

片嶋:たしかにね。去年、イギリスのEU離脱が決まるとか、トランプが大統領選挙で勝ったとか、世界が大きく動きはじめたじゃないですか。だから、この映画で皮肉っているようなことが現実味を帯びてきているというところはありますよね。要するに、多様性をどうやって自分の中に確認するか、認識するかというのが異種婚姻譚の教訓みたいなものでもあり、それが再生につながる、新しいものにつながっていくという話の中で、EUだってこれから崩壊するかもしれないし、アメリカ合衆国だってどうなるかわからない。ソビエトだって崩壊したくらいだし、中国の何千年の歴史も統一があって分断があってみたいな歴史だし、そういった社会の大きなうねりみたいな時期に来ちゃってるんですよね。そこで行き過ぎを是正するようなかたちで崩壊するのであればそれはひとつのあり方でもあるんだけど、ウルトラ保守みたいな右翼勢力が多様な考え方なり多様な民族なりを抑圧するようなことになると最悪になるわけで、それが実際に始まっているわけじゃない? そこで「それでいいのか?」というようなことですね。なんだかんだ言って、この映画のテーマというのは一言で言うと「祈り」みたいなことであり、人間がどうやったら幸せになれるんだろう、社会がどうやったら幸せになれるんだろうみたいなところに収斂されていくところがあって、みんなこんな欲望やカオスの中で生きているわけだから答えはないんだけれども、それを4時間の映画の海の中で泳ぎながらみんなで考えましょうというようなところです、きっと。

―― 世界がそういう状況になっている中で、この作品のラストをどう捉えるかというところがありますが、決してネガティブなラストではないですよね。

片嶋:うん、普通の人が思い描くようなラストを裏切るかもしれないかたちで映画は終わるわけですけど、それをどういうふうに観るかというのは人それぞれでね。アンハッピーと思うのか、ハッピーと思うのか。ただ、そこで考えることはできるので。

―― では最後に、この作品に興味を持たれている方に向けてメッセージをお願いします。

片嶋:まあ長いんでね(笑)。人の幸せであるとか、社会情勢をどう見るかとか、そういったことを含めて、さっきも言ったけど、4時間観ていると映画の海の中を泳ぐというか浸るというか、そういう気持ちになると思うんですよね。だから、そうした体験の中から、人の幸せだとか世界の幸せだとか、そういったことをみんなで考えましょうと、そういう映画です。あんまり普通の映画のような楽しさはないかもしれませんけども、苦難の映画を体感しに来てください。そんな……修行じゃないんだから(笑)。

(2017年4月25日/太秦にて収録)

作品スチール

いぬむこいり

  • 監督・企画プロデュース:片嶋一貴
  • 脚本:中野太/片嶋一貴
  • 出演:有森也実 武藤昭平 ベンガル PANTA 緑魔子 石橋蓮司 柄本明 ほか

2017年5月13日(土)より新宿K's cinemaほか全国順次公開

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