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『巫女っちゃけん。』グ・スーヨン監督インタビュー

 神社の宮司の娘・しわすは、就職活動がうまくいかず神社で巫女のバイト中。ある日、一言も喋らない幼い男の子・健太と出会ったしわすは、健太が母親に虐待を受けていると察するが、逆にしわすが健太に暴力を振るったと誤解されてしまい――。
 これまで『偶然にも最悪な少年』などを送り出してきたグ・スーヨン監督の新作は、神社の巫女さんが主人公! 『巫女っちゃけん。』は、巫女らしからぬ巫女のしわすと口を利かない少年・健太の出会いから始まる騒動が描かれていきます。
 主演に広瀬アリスさんを迎えた『巫女っちゃけん。』は、一見コミカルでありながら、現代の社会問題や偏見などの事柄に正面から向き合った作品ともなっています。『巫女っちゃけん。』の根底にはなにがあるのか、監督にお話をうかがいました。

グ・スーヨン監督プロフィール

1961年生まれ、山口県出身。20代よりCMディレクターとして活躍し、話題となったCMを数多く手掛ける。また、作詞、小説の分野でもマルチに才能を発揮し、2002年に小説「偶然にも最悪な少年」を発表。同小説を自らメガホンをとって映画化した『偶然にも最悪な少年』(2003年)で映画監督デビューを果たす。ほかの監督作品に『THE 焼肉 MOVIE プルコギ』(2007年)、『ハードロマンチッカー』(2011年)。

「ぼくの映画は、答えを明確に提示する映画ではないんですね」

―― 今回の『巫女っちゃけん。』は、どのようなきっかけで生まれた作品なのでしょうか?

グ:きっかけは「動機は不純」というところから始まっていて(笑)。7年前ぐらいに、とあるアイドルグループで映画をできないかみたいな話があって、そのときに巫女企画というのが立ち上がったんです。言ってみればコスプレものですよね。巫女修行をしている若い人たちが苦労しながらちゃんとした巫女になっていくという、スポ根というか成長物語をというオファーだったものですから、そういうホン(脚本)を書いたんです。結局、そのアイドルグループでという話はダメになり、別のグループでという話もダメになって、立ち上がってから4年くらいでほとんど死んだ企画になりつつあったところ、ある女優さんが興味を持ってくれてホンを読みたいと。そのときに、アイドルグループではなく女優さんになった場合はちょっとネタが違うんじゃないだろうかと思ったんです。それで、ぼくと、脚本を書いた弟(具光然さん)とで話して、もうちょっと社会性を入れてみようと。いまは子どもの虐待とかの話をよく耳にしますし、前からテーマとして気になっていたところはあったので、ちょっと社会派に大きく振って、いまの方向の脚本ができたんです。で、その女優さんでという話はダメになり、何人か探して(広瀬)アリスさんにやっていただいたということなんです。

―― 『巫女っちゃけん。』とタイトルも九州の方言になっていますが、九州が舞台という要素は最初から決まっていたのでしょうか?

グ:それは、脚本がいまの方向になって話を進めていく中で、福岡の宮地嶽神社さんが撮影に使っていいと言ってくださったので、福岡のご当地的なものが入ってきたんです。ぼくはもともと下関なんで、博多弁にすごく魅力を感じるんです。いまの標準語にはどんどんリアリティがなくなってきていると思っているんですね。それは、もともとCM屋だったぼくも含め、広告屋のせいでもあると思うんです。広告でなんでもかんでも「好きです」って言っちゃうから「好きです」という標準語になんのリアリティもなくなってきている。でも、博多弁で「好いとう」って言われると、なんか「本当に好きなのかな?」って思っちゃう(笑)。リアリティが地元の言葉にはあると思ったんです。

―― 登場人物の中で主人公のしわすだけが九州の方言を使っていたと思うのですが、それはいまのお話にあった地元の言葉のリアリティという部分につながっているのでしょうか?

『巫女っちゃけん。』スチール

『巫女っちゃけん。』より。広瀬アリスさんが演じる主人公・しわす

グ:あと、宮司の三番手のちょっと太った奴がベタな博多弁を使っていますね(笑)。狙いはありましたね。全員が博多弁にすると立たないというか「意図的に博多弁を使ってますよ」というような引っ掛かりをつけるために、方言を使うのはしわすと、いかにも方言を使いそうなタイプの太った宮司とで(笑)。いまは、若い女の子も意外に博多弁を使っていなかったりするんですよ。現代性を出すのもあって、標準語で喋る人もいれば違う人もというのでバランスを取ったところもあります。

―― 育児放棄ですとか、しわすの就職できずにちょっと冷めているみたいなキャラクターですとか、先ほどお話にあった社会性というのが作品に入っていますが、そういう問題に興味を感じられたのはなぜなのでしょうか?

グ:もともとはですね、やっぱりぼくが在日として生まれたわけじゃないですか。で、ぼくの場合は通名がないんですよ。親父が「韓国の名前があってそれが本当の名前なんだから」ということで、当時の日本で何十万世帯ってあった中で、通名がない家が2軒とか3軒だったんじゃないかな。そんな時代だったんです。そうすると、おのずとぼくがちっちゃいころからいろいろな揉め事が起こって(笑)。そのときに、なぜ自分が韓国人で日本で生まれなければいけなかったのっていう理由はどこにもないわけじゃないですか。「そう生まれてしまった」というのが人にとって最大の不条理、理不尽ですよね。それは在日だけではなくて、日本にいる中国の方だったり、フィリピンの方だったり、ブラジルの方だったり、いろいろな方がいらっしゃって、ぼくはそういう方たちにも興味を持っていったんです。要するに自分と似ている感覚がある。特別な理由があるわけではなくて、そう生まれてしまったために上手に生きられないタイプの人たちで、もっと言えば、男で生まれた女で生まれたで上手に生きられない方や、障害をもって生まれた方もそこに入ると思うんです。
 ただ、ぼくは自分の人生の中で、なにかを解決したり次の一歩を踏み出すための価値観の持っていきどころというのをいろいろ納得しながらやって来て、卑屈にならずに生きてこられたという経緯があるんです。そういう生い立ちからですかね、ぼくの映画は不条理とか理不尽に対して「こんな考え方もあるんじゃないの? こうしたらもっと穏やかに生きていけるんじゃないの?」という価値観の提案を目指しているんですよ。答えを明確に提示する映画ではないんですね。
 虐待というのも、子どもはその親のところに生まれたかったわけではないし、親もどういう子どもが欲しいというのがあったかもしれないけどその子どもが生まれてきたわけで、それを認められないかぎりどこへもいけないというのが、ほかの「そう生まれた」という不条理や理不尽と同じだと思うんです。それから、いまは夢を持つのが当たり前のように言われていて「夢を持っていなければいけない」というある種の強迫みたいになってますよね。でも夢が叶う人って1000人いてひとりいるのかというくらいで、だったら夢が叶わなかったときにどうするのかを誰かが教えてくれるかというと、意外と誰も教えてくれないんですよ。
 そういうことを言うのに、場所として神社ってピッタリだというか、すごくいいんじゃないかなと思ったんです。リアリティとファンタジーが組み合わさった場所で、でも巫女さんは人間だし、宮司さんももちろん人間で、そこにいる人は人間なんだから、あまりフィクションになりすぎないところでお話ができるんじゃないかと。すごく面白いものになるんじゃないかと思ったんです。

「アリスは、演技の出方がしわすにぴったりだと思ったんです」

―― 映画の中で、しわすが正しいことをしているはずなのに誤解されてしまうというのは、いまお話にあった不条理や理不尽ということを反映しているわけですね。

グ:まさしく、そのとおりです。

―― そのしわすを演じた広瀬アリスさんは、先ほど「何人か探して」というお話もありましたが、どのような経緯で主演に決定したのでしょうか?

グ:もうアリスがバラしちゃってるから言っていいと思うけど、オーディション的なかたちだったんです。そんなにたくさんではなくて10人にもお会いしていないですけど、ちょっと演技をしていただいて、ホンを読んでの感想なりを聞いて。そのとき彼女は、まあ当たり前でしょうけど、ああいうお話は初めて読んだと(笑)。ただ、自分では見たことないけど情報としては子どもの虐待とかそういう話は聞いていてリアリティは感じると。それに対しての疑問だったり納得いかないところは自分にもあって、ちょっとでも自分になにかできることがあるんじゃないかと思っていると話していたんです。ぼくなんかよりよっぽど大人ですよね(笑)。それで、自分ができることであればやってみたいとおっしゃっていただいたのと、演技の出方というか、それがしわすにぴったりだと思ったんです。当然、ぼくの考えるしわすと、彼女の考えるしわすって少しずれていると思うんです。メチャクチャずれてはいないんですよ。わりと近いところでずれていて、そこがぼくからするとすごくやりやすかったというか、ずれが面白いんです。ただ、あんまりずれると今度はケンカになっちゃうんで(笑)、その距離感というのはたぶん彼女本人がはかられていたと思います。

―― 監督からご覧になって、広瀬さんはしわすというキャラクターをどう作られていったように見えていましたか?

グ:しわすというのは、さっきおっしゃったように、自分はなにも間違ったことはしていないのにお母さんは出ていくし就職はできない、それに対するモヤモヤはあって、うまくいかないのはなにが問題なのかというのを、ちょっと開き直っている子ですよね。それは彼女は理解してくれていたので、芯に持っている正義感みたいなものを真剣に考えられていたんじゃないんですかね。ガサツなのと正義感というのは同居するんだということをよく作ったと思います。態度とかはガサツなんだけど正義感というものを持っていられる演技というのを、一生懸命に研究というか、やっていたような気がします。

―― 広瀬さんは、役にはわりとすんなり入られていたのでしょうか?

グ:そこはどうなんでしょう、すんなりではないと思います。苦労したかどうかはわかりませんけど、相当に考えられてやっていました。彼女は「いい子」の役が多いですよね。そういう意味では、ガサツな部分を楽しみたいというのはあった気がします。実は、ぼくは彼女とあまり話さないんですよ、深くは(笑)。

『巫女っちゃけん。』スチール

『巫女っちゃけん。』より。山口太幹(やまぐち・たいき)さんが演じる健太

―― しわすとコンビ的な存在となる健太を演じた山口太幹くんは九州でのオーディションで選ばれたそうですが、九州でオーディションをしたのはなぜなのでしょう?

グ:東京でオーディションしていても子役の方はたくさんいらっしゃるんですけど、なんかみんな見たことある演技になってしまうきらいがあって、演技の方向ってわりかしみんな一緒に見えるんですよね。だから、ちょっと苦労するかもしれないけれど、地方でやっている子役さんなり、もっと言えば素人の方でもいいかなというのがあって、向こうでオーディションをしてみました。最初の書類選考から言うと、応募してくれた方は全部で何百人だったと思います。

―― その中で山口太幹くんを選んだ決め手となったのはどんなところですか?

グ:本人のやる気というのがすごいです。この年代になると言うことを聞かない子って多いんですよ。あと、飽きてしまって集中力が持たない子がほとんどなんですけど、彼はこの歳にしてやらなければいけないことがわかっていて、それは撮影の段取りとしてすごく楽だなっていうのもあるんです(笑)。彼ね、作っている演技じゃないんですよ。半分くらいは地なんです。で、彼の拠り所は秒数なんです。「ここはこういう気分だからこうやってね」と言っても、やっぱり言葉の理解も難しいし、気持ちの理解って難しいんですけど「よし太幹、しわすを3秒見て、3秒見たらMEGUMIさん(※健太の母・美和役)を2秒見て、次にまたしわすに行って3秒見て、次またMEGUMIさんを見たら、1秒見て、1、2、3でしわすを指差せ」と言ったら、それをピシッと覚えていて、そのとおりなんです、彼の演技は。「監督、ここは何秒ですか?」って、秒数が一番わかるんです。それをきっちりやろうとしてくれる。あとは黙っているときの表情ですね。やっぱり、演技のうまい子はさっき言ったような東京的なわかりやすい演技の子が多かったんです。彼はどこに来るかわからないっていう表情だったので「この子面白いな」って。最後のオーディションは30人とか40人で公開オーディションだったんですよ。そのときに、3秒見ていて目線がずれなくて「なにを考えているんだろう?」ってこっちに思わせる表情ができる子だったんです。この年代だと珍しいんじゃないんですかね。きっちりしていますよ。

―― 広瀬さんと太幹くんふたりでのシーンが多かったと思いますが、おふたりはすぐに馴染んでいたのでしょうか?

グ:馴染んでましたよ。よくふたりでなにかコソコソ話していましたもん(笑)。仲良しでしたね。姉弟くらいに思っていたんじゃないんですか。太幹もプライド高いんですよ。「ぼくは600人の中で選ばれた役者だから」みたいにプライド高くて、絶対に甘えたりしないんです。だから対等に付き合えたんじゃないかな。甘える子どもの弟とお姉ちゃんという感じじゃなくて、わりかし近い感じでした。そういう意味では逆転するときもあって、太幹が「ここはこうすればいいんだよ」みたいなことを言うのがけっこう的を射ていて、アリスが「なんか立場が逆になってるね」みたいなことを言ってて(笑)。でも、アリスはほんとにいい子で、稀に見るいい子ですよ。機嫌悪い素振りを全然出さなくて、観察していると疲れているときもあるんですけど、人がいる前ではそういうところを見せない。太幹もそうなんですけど、まあよくがんばってくれましたよ。撮影は夏で、神社の境内は石畳ですから、体感温度40℃くらいありましたから。

「優しさを出す気はなかったんですけど、そんなふうになっちゃいました(笑)」

―― 『巫女っちゃけん。』では、しわすと健太のお母さんの美和との対立というのがひとつ軸としてあって、ほかにもしわすと巫女仲間の対立や、しわすと児童相談所の女性職員の対立、それから終盤ではしわすと母親の対立と、基本的に「女性対女性」の話になっていると感じました。これは意図をされていたのでしょうか?

グ:まあ、そうなっちゃいましたね(笑)。というか、ここで男女の対立がどこかに一筋あるとそこが立ちすぎてしまうなというので、しわすと神社の禰宜との対立というのも多少はあるんですけど、あまりそこは濃く出さないようにしようという狙いでしたね、女性の話なので。これはぼくの我がままなんですけど、ぼくは女の人に「子どもを産んだら、もう“お母さん”なんです」と言いたいんですよ。もし“お母さん”になるのが嫌でずっと“女”でいたいのなら、子どもを産まなければいいんじゃないかって思っているところがあって、なんなら産む前にお腹の子どもに一言聞いてほしいと、そんなSFができないかと考えたことがあるくらいなんです(笑)。未来になったらお腹にいるうちに子どもの意見が聞けるという(笑)。すごく男の我がまま、ぼくの我がままなんですけど、そういう気持ちがあって、やっぱり女の人を主役にしようというのがありました。

―― 『巫女っちゃけん。』公式サイトの監督のプロフィールには“「そろそろ誰も死なない普通の映画を」という奇特な一部ファンの声に応えて映画『巫女っちゃけん。』を撮ったというウワサは~”という一節がありましたね。

グ:そんなこと書いてましたっけ?(笑) あ、それは光然だ。たぶん脚本を書いてる弟の光然が書いたのかな、ぼくが書いたんじゃなくて(笑)。

―― そこに書いてあったように『巫女っちゃけん。』は、たしかに誰も死なないお話ですが、でもどこかに「死の匂い」というか「生と死」を感じさせるところがあると思いました。監督は、それを意図されていたのでしょうか?

インタビュー写真

グ:ああ、そう思われましたか。それはちょっと意外ですね(笑)。狙いとしてはそれはなかったです。でも「覚悟」はあったかな。ぼくは、もし誰かと揉めてドタマにきたら、ケンカするなら生きるか死ぬかのところまでやるぞと、そういう覚悟がつねにあるんです。でも、ほんとにそこまでやっちゃったらあとでいろいろ問題が起きるわけですよ(笑)。そうすると大体は「そんな問題を起こしてまで揉める奴じゃねえな」ってなって、頭に来なくなるんです。ぼくは東京に来て36年、イライラしたことはありますけど怒ったことはないと思います。「行くときはとことんまでやるぞ」という覚悟があると、一回りして「それほどの相手かというとそうではない」という結論に行くんです。その覚悟というのは映画を撮るときもそうで、現場ではそう見えないかもしれませんけど、覚悟としては生きるか死ぬかでやっています。『ハードロマンチッカー』(2011年)にはそういう覚悟を入れていました。『プルコギ』(『THE 焼肉 MOVIE プルコギ』2007年)にも多少はありましたし『偶然』(『偶然にも最悪な少年』2003年)もそれがテーマだったですけど、ただ自分としては『巫女っちゃけん。』にそれを入れたということはないです。意識的に覚悟みたいなものを表現として盛り込もうというのは今回はなかったですけど、場所が神社だったので、覚悟しなきゃいけないムードというのは現場にありましたね。なにか、すべてにおいて真摯に対応しなければならないんじゃないかという気が起こるんです。それは出ていたのかなあ。そういう、生きるか死ぬかの覚悟で撮っているというのを感じ取ってもらえると、ぼくらは嬉しいですね。もしかしたら「悪意」は入れようとしていたかもしれないです。人って当然、善意も悪意も持っているもので、その「悪意」だけをひた隠しにするような物語は作りたくないと思っているんです。

―― 『巫女っちゃけん。』は一般公開を前に(2017年)10月の第30回東京国際映画祭で上映されていますが、映画祭での反応で感じられたことがあればうかがわせてください。

グ:ぼくの映画は、普通の方とカットの間合いとかテンポとかが違うらしくて「オフビート」と言われたりするんで、どういう受け方をするのか正直不安なところもあったんですけど、意外と女性受けが良かったですね、あんなに女の人をひどく描いているのに(笑)。あと「泣きました」と言われて「え、どこで?」って(笑)。号泣している若い女の方もいて、びっくりして「なにをそんなに泣くの?」と聞いたら「ちょっと思い出して」と言っていたので、もしかしたら虐待の経験がある方だったのかなと思います。女性に評判が良くて、意外な反応でした。“グ・スーヨンファン”というか、もともとぼくの映画をよく観ている人には「意外な方向ですね」って言われますけど(笑)。これは映画祭じゃなくて別のところでリリー(・フランキー:しわすの父・大鳥役)さんが言っていたんですけど「いままでひた隠しにしてきた優しさが出ちゃいましたね」って(笑)。ぼくは優しさを出す気はなかったんですけど、なんかそんなふうになっちゃいました(笑)。たぶん、リリーさんも、アリスも、みんなの演技がそっちの方向に行っていたんだと思います。オチももうちょっとシニカルにも終われますけど、ちょっとあたたかく終わることになって、それを求めていたのかなって思います。……でも、東京国際映画祭のときのあのでかいスクリーンもよかったんじゃないかなと個人的には思っています(笑)。映画ってでっかいスクリーンで観るといいんですよね。試写で観たときよりよく感じたのは、スクリーンがでかかったからだと思います(笑)。やっぱりあのサイズがよかったのかなって。(※東京国際映画祭では日本最大級サイズのスクリーンであるTOHOシネマズ六本木ヒルズスクリーン7で上映された)

―― では最後に、記事を読まれる方に向けてメッセージをお願いします。

グ:たまたま神社の娘で巫女になっていた現代的な女の子が、突然現れた子どもに振り回されながら人としてちょっと成長していくという物語ですけど、ぼくらの気持ちとしては「優しさ」とか言うと大げさになるので「ちょっとだけの思いやり」みたいなのが少しだけあれば、いろいろなことがもうちょっとずつうまくいんじゃないかなというのが本当のメッセージなんです。ちょっとした思いやりというのをつねに持っていると、そんなに捨てたもんじゃない世の中なんじゃないか、特に日本の環境ってそうだなって思います。撮影のときに神社の境内に入って行くと、霊感もなにもないぼくでも、なんか穏やかな気持ちに不思議となれたということは、そうなってしまうという環境、神道が持っていたものがあると思うので、ぜひこの映画を観てもらって「ああ、ちょっとした思いやりって当たり前のことなんだよね」という気持ちになっていただければ、きっとご利益があるかと思います(笑)。ぼくはクリスチャンなんで、クリスチャンが神道の映画を撮っているというのもおかしいんですけど、神社というのはすごい場所なんだなって。いまは、若い方で神道と仏教がごちゃごちゃになっている方もいらっしゃいますよね。その中でも、古事記とか日本書紀の時代から伝わっている日本のモラルの原型というのがあって、それを知らず知らずにやっているといのは素晴らしいことだと思います。いま一度、それを感じ取っていただきたいと思っております。今回の映画は人が死なないので(笑)。

(2017年12月15日/スリーパーエージェントにて収録)

作品スチール

巫女っちゃけん。

  • 監督:グ・スーヨン
  • 出演:広瀬アリス 山口太幹 MEGUMI 飯島直子(特別出演) リリー・フランキー ほか

2018年2月3日(土)より全国ロードショー 1月20日(土)福岡先行ロードショー

『巫女っちゃけん。』の詳しい作品情報はこちら!

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