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『森のカフェ』榎本憲男監督インタビュー

インタビュー写真 論文を書けず悩んでいる若き哲学研究者の青年は、気晴らしに出かけた自宅近くの森で見知らぬ女性と出会う。「いらっしゃいませ、森のカフェにようこそ!」の言葉と勧められるコーヒー。これは森の妖精のいたずらなのか、それとも……。
 ひとりの青年と若い女性の不思議な出会いから始まる『森のカフェ』は、長く映画界に携わり『見えないほどの遠くの空を』で監督デビューした榎本憲男監督の長編第2作。ロマンティック・コメディのように展開する物語には、管勇毅(かん・ゆうき)さん演じる主人公の専門分野である哲学の知識も散りばめられ、観客の知的好奇心をくすぐる独特な味わいのエンターテイメント作品となっています。また、ヒロイン役には音楽大学で学びミュージカル「レ・ミゼラブル」などに出演するミュージカル女優の若井久美子さんを迎え、歌が重要な役割を果たす作品にもなっています。
 哲学と音楽とコーヒーが不思議なハーモニーを奏でる『森のカフェ』には、榎本監督が考える「これからの映画作り」も見えてきます。映画公開を前に、榎本監督にお話をうかがいました。

榎本憲男(えのもと・のりお)監督プロフィール

1959年生まれ、和歌山県出身。大学卒業後の1987年に銀座テアトル西友オープニングスタッフとなり、翌年同劇場支配人に就任。その後は東京テアトルで劇場支配人、番組編成、プロデューサーとして映画に携わりつつ、脚本家としても活躍。2010年東京テアトルを退職、2011年公開の『見えないほどの遠くの空を』で監督デビュー。2012年には短編『何かが壁を越えてくる』が第25回東京国際映画祭「日本映画・ある視点」部門で上映される。2015年にサスペンス小説「エアー2.0」が刊行され、小説家としての活動も本格化させる。

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「そこにある椅子に座ろうとするんじゃなくて、椅子をどこかから持ってきて椅子の輪の中に入れたい」

―― まず、一番お尋ねしたいことを最初に質問させていただこうと思います。『森のカフェ』ではなぜ主人公を哲学研究者にしているのでしょうか?

榎本:ぼくは哲学を専門に勉強したことはないんですが、大学に入ったときに一般教養で哲学の授業をとっていて、それが面白かったんですよ。けっこうハードな授業で、今回『森のカフェ』で取り上げた“心身問題=マインド・ボディ・プロブレム”の一線級の先生が教えてらしたんです。その先生の授業が面白かったので、わりと先生の研究室に通うようになったんですね。さらにぼくが卒業して就職したあとに、その先生が二部(夜間部)でも教えていたのでその授業に顔を出すとか、あるいはその先生がどこかのセミナーで話をするときに参加するというようなことを続けて、まあ興味の向くままに哲学の入門書とかをパラパラと読みはじめるわけです。そうすると、たとえば岩波文庫のヘーゲルの著作を買ってきてスラスラ読めるかというといまでもちょっと難しいんですが、さすがに卒業してから30年くらいそんなことを続けていると、なんとなくわかってきたっていうところもあって(笑)。それで、社会学という学問があるじゃないですか。社会学というのはどこかで哲学とちょっと距離をとることによって発達した学問ですよね。いまはなんとなく社会学流行(ばやり)だと思います。というのは、社会学というのはなんとなくジャーナリズムに近いからなんですよね。今回の映画は、森の中の話だからジャーナリズムから遠い学問のほうがいいなということで、哲学を選んでしまったという感じですね(笑)。

―― では、学問を映画の題材にするという発想は最初からあったわけなんですね。

『森のカフェ』スチール

『森のカフェ』より。管勇毅さんが演じる主人公・松岡は哲学研究者

榎本:いや、そうではないですね。まず、この映画を撮りたいと思ったときに「森で撮る」ということのほうが大切だったんです。そのころちょうどぼくは引越しをして、引越した先にいい森があった。「このあたり見事な紅葉になるそうだ、ここで映画を撮ろう」とすぐ思ったわけです。じゃあどんな話を撮るかというときに、森なのでロマンティックに行こうということでロマンティック・コメディの要素を入れようとしたということなんです。それで、ロマンティック・コメディというのはわりと型があって、キャラクターの配列がだいたい決まっていて男のキャラクターはだいたいふたつに分かれるんですよ。ひとつはチャランポランな色男。これは発展していって、たとえば「ルパン三世」みたいなのもそういう感じになっているわけですよね。もうひとつは、ちょっと風変わりで堅物な偏屈な男の人。これはハワード・ホークスの『赤ちゃん教育』(1938年・米)の主人公が恐竜の骨とかの採掘をやっていたり、プレストン・スタージェスの『レディ・イヴ』(1941年・米)の男の主人公は蛇の収集家かなんかだったりする。だから、主人公をちょっと風変わりな学者にしようかなと思い巡らせていたときに、じゃあ学問をなんにしようかという問題が浮上した。あんまり小道具がいらないものがいいというところもあって(笑)、最初は心理学にしようかとも思ったんだけど、やっぱり俺の場合は哲学かなって。「ちゃんと勉強したこともないのに」と思いながらもそうしてみました(笑)。

―― 作品によっては、そういう主人公の設定が「風変わりな人物」ということを示すために使われるだけで映画のテーマには関係しないことも多いと思うのですが、『森のカフェ』では哲学が内容に密接に関わっていくのがユニークだと思いました。

榎本:それは深部から染み出してくるんだね。つまり、自分のテーマであり『見えないほどの遠くの空を』のテーマでもあったのは、この社会の外側の遠い世界のこととか、あるいは「計算不可能性」と呼ばれるようなもの、そこにアクセスしたいということ。それがぼくの一貫したテーマなので、ロマンチック・コメディ風な男女の駆け引きを楽しんでみていても、そういったテーマが深いところから表層のほうに染み出してくるっていうことだと思います。

―― 現在、映画を作るときに「観客はライトなものを求めている」という発想になりがちだと思います。そういう中で哲学という題材というのは、かなり大胆な選択なのではないでしょうか?

榎本:それはね、ぼくは「映画の椅子取りゲーム論」と言っているわけ。つまり、みんなマーケットに椅子がいくつかあって、その椅子に座ろうとしている。椅子の種類はあんまりないんだ。でも、ぼくはそこにある椅子に座ろうとするんじゃなくて、椅子をどこかから持ってきてその椅子の輪の中に入れたいんだな。それは絶対あるはずだと思っている。要するに「需要があるのに供給がないだけなんじゃないか?」という仮説を検証したいってことです。いまの映画の観客はそうだって決めつけてるけど、じゃあもっと枠を広げて日本人全体が難しいことが嫌いなのかというと、そうでもないんじゃないかなって思うわけ。みんな世界のことをもっと知りたいんだっていう欲求はちょこちょこ見受けられる。たとえばマイケル・サンデルの「これからの「正義」の話をしよう」という本は売れたよね。あれはちゃんと読み込むと政治哲学の議論としては真っ当なものです。ぼくもひじょうに興奮して読んでテレビも見たけど(※1)、あれがけっこうな数売れている。それから、ちょっとびっくりしたけどトマ・ピケティの「21世紀の資本」も相当売れてるんでしょ? さすがにあれは読めなかったけど(笑)、やっぱり「資本主義を中心とするこの世界ってどうなんだよ」ということはみんな知りたいんだろうし、「正義って一体なんだよ」ってことも知りたいんだよね。みんなそういう抽象的なことにも興味があるのに、映画がそういった興味に対してまったく応えてなくて「映画はもうちょっと別の感情だけを扱っています」というのは、少ない椅子で椅子取りゲームをしているという感じがするので、ぼくはそこに加わるつもりはないということです。要するに、別の椅子を用意してそこに観客を座らせて、自分も座りたい。

―― それは、メジャーな映画を作っている人たちに向けて「こういう椅子もあるんだ」と示す意図もあるのでしょうか?

榎本:それはあんまりないですね。メジャーな人たちが考えているのはもっと大味なことなんですよ。たとえば、映画は原作がなきゃ難しいというのはいまやメジャー会社の常識になっています。なかなかオリジナル脚本なんてのは難しい。メジャーな人たちが考えるのは、たとえば誰が出演するのかとか、どこが製作委員会に加わるかとか、そういうことで、たぶんシナリオの重要度なんていうのはかなり低いんですよ。全部調査したわけじゃないけど、俺が垣間見たところではそうです(笑)。だから、それをどうこうするっていうのはぼくはあんまり考えていない。メジャーカンパニーにとってはそれが合理的だということもわかる。ただし、もうちょっと小っちゃなサイズがもう少しまともなサイズにまでサイズアップしなきゃいけないと考えていて、そのときになにが欠けているかというと、やっぱり面白さじゃないかなという気がするんです。それと映画が新しい世界観を観客に提示して、新しい感情を引き起こすこと。そういうふうに思っているんです。

  • ※1:マイケル・サンデル著「これからの「正義」の話をしよう」(日本版2010年刊行)はハーバード大学での講義をもとにしており、その講義を収録したテレビ番組が日本では2010年に「ハーバード白熱教室」のタイトルでNHK教育テレビ(現・NHKEテレ)で放送された。

「世界の見え方なんてひとつじゃないんだし、そういったことを提示したい」

―― 少し別の角度からお話を伺いたいと思います。今回の「なにかに行き詰まっている主人公が不思議な出会いをして、それが変化のきっかけとなる」というのは、映画をはじめフィクションでよく使われる展開ですね。

榎本:そうです。いくつもの作品がそのような出だしで撮られています。私もそれに倣ってやっているということですね、たぶん(笑)。

―― 以前のインタビューで『見えないほどの遠くの空を』は、シナリオを勉強している学生さんがよく書くようなストーリーを自分ならどうするかというところから発想されたというお話をなさっていましたが、今回もあえてよくある展開から始めてそうでないものを作るという狙いがあったのでしょうか?

榎本:まったくのオリジナル、まったくの新しいお話のかたちというのは、もうないと思っています。だけど「こういうふうに見ればいいのね」というふうに信じ込んでいる観客をどこかで裏切っていく、基本パターンからずれていくということは自分ではすごくやりたいことです。男の子が女の子と会うというのは「ボーイ・ミーツ・ガール」というパターンだけど、英語の「ボーイ・ミーツ・ガール」という言葉の中には「ありきたりの展開」という意味がちょっと含まれているんですね。だけど、そのありきたりの展開の中でありきたりに見せていかないで、どんどんずらしていく、あるいは転覆していく。そういったやり方がぼくのシナリオの書き方の基本なんだと思います。

―― そしてできあがった『森のカフェ』は、はっきりとジャンルに分けにくい作品になっていますね。

榎本:そうですね(笑)。

―― それは意図的にジャンルにあてはまらないような作品を目指されたのでしょうか?

『森のカフェ』スチール

『森のカフェ』より。森の中で松岡が出会う若井久美子さん演じる不思議な女性・洋子

榎本:いや、今回は、ジャンルをまっとうしきれてないところは若干あるかもしれないですね。ほんとは胸を張って「ロマンティック・コメディ」と言いたいんですけど、ロマンティック・コメディにしてはその最後までロマンスロマンスしてなくて、ロマンス度は低めかなとは思う(笑)。だから逆に自分のこれからのテーマとしては、もうちょっとジャンル度を上げたいというのがあるんです。それはサスペンスというジャンルに挑戦したい。ただ、ちょっといろいろ予算の都合でできなかったりしたんで、だから先に小説で書いちゃった(※2)というところもあります(笑)。今回は「こういうジャンル」と分けることがひじょうに難しいんだけど、これからはもうちょっとジャンルに寄せて、しかも単ジャンルではなくてジャンルミックスにするというのが基本的な方針なんです。ジャンル映画というのは、さっき話したとおりにひとつの定義として「お約束をまっとうする」ということになっていて、お約束のとおりにことを運ぶのが偉いとなっているんだけど、ぼくはやっぱりそこをずらしたいので、どこかでほかのジャンルと掛け合わせるということをしたいんです。だから、今回もそれのミニサイズになっているんですね。

―― 『森のカフェ』の前に監督された短編の『何かが壁を越えてくる』は、ホラー映画のように始まってホラーではないところに到達する作品でしたが、あれも「ジャンルを掛け合わせる」ということなのでしょうか?

榎本:そうですね。「ホラーかもしれないというふうに観るんだけど実は全然違いました」というところの小咄をやっていて、若干ギミック的に「そういうふうに思わせておいて転覆していく」という手を使ってます。そして、次にやりたいのは、終始ずっと入り混じっているという感じのジャンルミックスをしたいんですよ。具体的にはサスペンスとエロティシズムというのを掛けあわせたいというふうに思っている。

―― 「転覆していく」ということだと『森のカフェ』でも、ロマンティック・コメディと思って観ているとちょっとサイコ・サスペンスのような要素が入ってきてドキリとさせられたのですが、あれはもちろん意図された「転覆」なわけですね。

榎本:そう、意図的ですね。

―― あそこでサイコ的な要素を入れた狙いというのはどういうところなのでしょうか?

榎本:これは「フレームを変えたい」ということですね。『何かが壁を越えてくる』もそうですけど、観客が「こういうふうに思って観ている」という流れの中の気持ちを1回リセットしてフレームを変えてしまいたい。変えてしまうこと、変えられてしまうことが快なんだということですよね。世界の見え方なんてひとつじゃないんだし、そういったことを提示したいということだと思います。

    榎本憲男監督エアー2.0」表紙画像
  • ※2:榎本監督が執筆した小説「エアー2.0」が2015年9月に刊行されている。完璧な市場予測システム「エアー」を巡るサスペンス小説で、もともと映画脚本として執筆されたものを小説化した作品。
  • 出版社のサイトで情報を見る

「音楽がセリフとかナレーションの役割の一部を果たす。自分でもそれをやってみたかった」

―― 『森のカフェ』は哲学という題材に加えて、劇中でヒロインがギターを弾き語りで歌う歌が大きな意味を持っていたり主人公もギターを弾いたりと、音楽が作品の大きな要素だと感じました。監督にとって音楽というのはどんな存在なのでしょう?

榎本:音楽はすごい好きで、ぼくはオーディオオタクだったりして聴くほうはものすごく好きだったりするんです。いろんなジャンルを聴いていて、引っ越しするときにだいぶ処分はしたんですけど、前は部屋一面にCDが並んでいました(笑)。だけど、演奏する音楽的な才能はまったくないんです。それがひじょうにコンプレックスになっていまして、ギターなんかもすごい長い練習時間をかけてやったりした時期があるんですけど、なんかうまくならないんですよね(笑)。聴くほうはすごく聴きこんでいて耳だけは肥えているんで、自分で演奏したパフォーマンスをプレイバックして聴くとすごく落ち込むっていうのがあってね(笑)。これは自分にはギフト(才能)がないんだなというふうに思って、自分で演奏するということは一切やらなかったんですね。でもすごく音楽が好きで、DJはやったりもしていたんです。それで今回、たまたま歌が歌える子(ヒロイン役の若井久美子さん)がキャスティングされたんで、じゃあ歌も歌ってもらおうというかたちで、安田芙充央という作曲家と一緒に書いたんですよ(※3)。

―― 劇中でヒロインが使うギターもかなりこだわられて用意されたそうですが、映画だと楽器が出てきても、あまりメーカーや機種にこだわっていなくて設定と合わない楽器が出てくる作品も少なくないですよね。

榎本:それはあるね(笑)。ぼくは自分がギターを弾いてたからね、一応(笑)。

―― 今回はそこでマーチンのD-35というギターを使っているところが音楽に対して嘘のないところかなと思いました。

榎本:逆に「あんな若い女の子がD-35を持つなんて何事だ」って怒っている人もいましたけどね(笑)。「D-35は高すぎる」っていうんだけど、でもあのギターは実際に美術のスタッフをやってくれた(松永)真帆ちゃんが持っているギターなんで「いや、それはあり得ますよ」って(笑)。主人公の彼の持っているギターは、チャキという相当に変わったギターですね。もういまはギターを作っていないメーカーで、わりとマニアな人が持ちたがるギターです。これは神戸からわざわざ借りてきたんですよ。チャキのギターは有名なところでは元・憂歌団の内田勘太郎さんがここのピックギターを使っていますね。

―― 音楽ということでいうと、今回のエンディングはボブ・ディランが元ですよね?

榎本:そうです。よくわかりましたね。あれはボブ・ディランの『ドント・ルック・バック』(1967年・米/D・A・ペネベイカー監督)というドキュメンタリーの物真似です。

―― あれも、この映画と音楽の関係をひとつ象徴しているように感じました。

榎本憲男監督インタビュー写真

今回の取材は劇中にも登場する大学の研究室でおこなわれた

榎本:なるほど、フォークだしね(笑)。あれは前からやりたかったんですよ。『ドント・ルック・バック』でボブ・ディランが「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」という歌に合わせて歌詞の印象的な単語を繰っていく。あれがすごく好きで、やっぱりボブ・ディランって言葉が大事なアーティストだからそういうふうにしていたんだと思うんだけど。それで、今回やってみたいなって思って「ラストショットをあのカメラワークで行きたい」と言ったらスタッフは嫌がっていましたね。タイミングを合わせるのが大変だから(笑)。

―― ボブ・ディランであったりギターであったり「この映画ではフォークだ」というイメージは最初からあったのですか?

榎本:そう、最初に決めたの。やっぱり、森で生ギターで歌うんだからロックじゃないだろうって(笑)。

―― そうすると、今回はフォークだったけれども、今後別の作品ではロックだったりジャズだったり、ほかのジャンルを使うこともあり得るのでしょうか?

榎本:ロックとヒップホップはあると思う。もうシナリオに入っているのがいくつかあるから。ヒップホップはやりたいね。

―― 映画に使う音楽としてのヒップホップの魅力というのはどういうところでしょうか?

榎本:やっぱり言葉を大事にしているっていうのと、韻を踏めるというのと、物語を語れるっていうこととかがすごくいいなと。うまく使えるとすごく効くはずだって思います。

―― 「言葉を大事にする」というのは『森のカフェ』でフォークを使われた理由にもつながってくるのでしょうか?

榎本:セリフの変形として歌の歌詞というのを使っているんですね。映画史で言うと『イージー・ライダー』(1969年・米/デニス・ホッパー監督)が映画音楽としてロックを使っていて、『イージー・ライダー』や『卒業』(1967年・米/マイク・ニコルズ監督)以前の映画音楽というのはストリングスだったわけじゃないですか。「オーケストラが弾くのが映画音楽だ」と。それがアメリカン・ニューシネマが始まったときに、『卒業』ではサイモンとガーファンクルの曲がどこか主人公の気持ちを表現するものだったり、ナレーションの代わりのように使われていたり、あるいは『イージー・ライダー』でザ・バンドの「ザ・ウェイト」という曲があの時代の若者の気分を表現したりというふうに、音楽がセリフとかナレーションの役割の一部を果たすという表現形式が映画音楽にロックとかフォークが入ってきたときに出てきたと思うのね。自分でもそれをやってみたかったというのがあります。しかも劇中の人物にやらせたかった。劇中の人物が歌ったり演奏したりするということですね。

―― では、最後に『森のカフェ』に興味をお持ちの方へメッセージをお願いします。

榎本:まず、面白い映画だと思っています。「作った人間が面白いと言うのは当然だ」と疑う気持ちもわかりますが(笑)、ぜひこの言葉を信じて観にきてください。逆に言うとネガティブな要素はあまりないと思います。たとえば、血が嫌いな人とか人が死んだりするのが嫌いな人も全然オッケーな映画です。間口は広く、そして面白く、そして深い。そして季節的にもバッチリな秋の紅葉が入っているので、ぜひ「ものは試し」で観にきていただければと思っております。

  • ※3:『森のカフェ』劇中でヒロインが歌う「いつのまにかぼくらは」は、音楽を担当した安田芙充央さんが作曲、榎本監督が作詞を担当している。

(2015年10月30日/都内にて収録)

作品スチール

森のカフェ

  • 監督・脚本・プロデュース:榎本憲男
  • 出演:管勇毅 若井久美子 橋本一郎 伊波真央 ほか

2015年12月12日(土)より ヒューマントラストシネマ渋谷にて公開 以後、全国順次公開

『森のカフェ』の詳しい作品情報はこちら!

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