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『狂覗(きょうし)』藤井秀剛監督インタビュー

 ある中学校で秘密裏におこなわれる荷物検査。生徒のいない教室で荷物を調べる5人の教師たちは、やがて生徒たちの、そして教師たち自身の“闇”に触れていく……。
 イジメ、教師によるわいせつ事件、SNSでのトラブル……。中学生を取り巻くさまざまな問題が伝えられる現在。『狂覗(きょうし)』は、藤井秀剛監督がそんな時代へのメッセージをホラーやサスペンスの手法を用いて描いた衝撃作です。
 戯曲「14歳の国」(作:宮沢章夫)を原案にしたこの作品は、高いエンターテイメント性と時代への真摯な視点をあわせ持った異色作となっています。『狂覗(きょうし)』の奥底になにがあるのか、それを“覗いて”みましょう……。

藤井秀剛(ふじい・しゅうごう)監督プロフィール

1974年生まれ、東京都出身。小学生のときから映画作りを始め、中学校卒業後に単身渡米、10年にわたりアメリカに滞在して映画を学ぶ。日本帰国後の2000年、執筆した脚本がテレビ番組「つんくタウン」で製作する映画に選ばれ(選考には音楽プロデューサーのつんく♂氏が携わる)『生地獄』で監督デビューを果たし高い評価を受ける。その後もホラー、サスペンスのジャンルで活躍。ほかの主な作品に「監金」(2001年/オムニバス『マネーざんす』の1編)、『怖来 FU-RAI』(2004年)、『恐怖依存症』(2006年)、『戦慄迷宮3D』(企画協力:2009年/清水崇監督)など。現在、新作の監督・脚本作『擬態霊』が進行中。

「社会性とエンターテイメントを融合させるのがぼくのやりたいこと」

―― 『狂覗(きょうし)』は、どういうきっかけで生まれた作品なのでしょう?

藤井:きっかけは、新聞の小さなコラムで「中学生がSNS上で自分の性器の写真を見せ合っている」という話を読んだんです。そのころぼくはちょうど自分の子どもが生まれたばかりで、それはちょっとまずいんじゃないか、いまの中学生が病んでいるんじゃないかと思ったのが根本の最初ですね。

―― それは、時期としてはいつごろですか?

藤井:9年前、10年前くらいになりますね。まだSNSもそんなに普及していないころで、当時は裏サイトの掲示板ですよね。それで、それから何年かあとでも中学生の子たちに訊くと「そんなことは普通にある」みたいな話があって、裏サイトから媒体が変わっただけでいまでもやっていることは一緒なんだなというのがあったので、映画の企画としてやってみたという感じなんです。それと同時に、コラムを読んだ時点でイジメの数と教師によるわいせつ事件の数が過去最高だったんですよ。それが9年経ってもいまだに過去最高で、つまりずっと上昇傾向にあるので、それもおそろしいなというのが自分の中にあって、それもきっかけになっていますね。

―― 原案となっている宮沢章夫さんの戯曲「14歳の国」とは、どのように出会われたのですか?

藤井:これもね、だいたい10年くらい前なんですけど、ちょうどぼくがいろいろな事務所でワークショップをやっていたころに、ワークショップに参加していた役者たちが「これをやりたい」と持って来たのが「14歳の国」だったんです。作品自体は知っていたんですけど戯曲を読んではいなかったので、いい機会だからと読んでみたら、すごく面白くて、特に最初の「秘密裏に荷物検査をする教師たち」というプロットに惹かれたんですよね。その惹かれたプロットと、さっきお話したいまの中学生に対する不安が重なって、この企画を作ったという流れですね。

―― 映画『狂覗(きょうし)』は、原案の「秘密裏の荷物検査」という設定を活かして社会的な題材を扱いながらも、原案以上にエンターテイメント性が高い作品になっていますね。

『狂覗(きょうし)』スチール

『狂覗(きょうし)』より。教師たちは生徒不在の教室で荷物検査をおこなう……

藤井:もともとぼくはそっち派というか、社会性とエンターテイメントを融合させるというのがぼくのやりたいことになっているんですよね。海外、たとえば香港の特にインディーズ映画なんかは、社会性とエンタメを融合させた作品って意外と多いんですよね。でも日本ってそこを別個で考えられてしまっているところがあって、社会的なものは敬遠されるし、合体させたらさせたで「なにをやりたいのかよくわからない」みたいに言われちゃうところがあるので、苦しいところはあるんですけど、でも日本でももっとエンタメの中に社会性を持ち込んでいかなくてはいけないんだろうなと思います。

―― そういう社会性とエンターテイメントを融合させるという方向性は、監督の中でどのようにできあがっていったのでしょう?

藤井:その辺を話すと長くなるんですけど(笑)、ぼくは小学校3年生のころから映画を撮りはじめたんですよ。そのきっかけは母親が映画好きで、母親が映画好きだったのはなぜかというと、祖母が九州で映画館をやっていたんです。それをさらに元を辿ると、祖母は満州で大陸劇場という劇場を持っていて、知り合いが調べてくれたところだとつい最近まで残っていた当時の満州ではトップクラスの大きな劇場だったらしいんです。それで、戦争が終わって日本に戻ってきたときに、俳優の長谷川一夫さんが「満州でいろいろお世話になったので」とうちの祖母に映画館を用意してくださって、祖母はそこで映画館を始めて、その劇場でうちの母は育ったんですよ。だからうちの母はメチャメチャ映画が大好きで、なによりもぼくを映画に連れていくみたいなところがあって、ぼくはどんどんどんどん映画にのめり込んでいったんですよね。その母が連れて行ってくれる映画というのは社会派の映画が多くて、たとえば『大統領の陰謀』(1976年・米/アラン・J・パクラ監督)のようなクソ難しい映画を小学校1年生のころから見せられていたり(笑)、それと同時にエンターテイメントな映画にも連れていってくれていたので、ヒッチコックをひたすら観て育ったところがあって、いまの自分に影響しているんだなと思います。

―― 『狂覗(きょうし)』を拝見すると、ヒッチコック以降のホラーやサスペンスのテイストも感じますが、そういうジャンルに傾倒していくきっかけはあったのでしょうか?

藤井:そこは、たぶんぼくと近い世代のクリエイターさんたちはみんな同じだと思うんですけど、ビデオですよね。ビデオ屋に行って映画をあさるように観ているうちに、ヒッチコックからデ・パルマになり、そこからトビー・フーパーになり、どんどんスプラッタホラーにまで入っていって「なんじゃこりゃ!」みたいな世界が簡単に観られる時代だったので、そこで影響を受けた部分は強いですよね。

「“どのタイミングで人間って黒くなるんだろう”という興味が常にあるんです」

―― 『狂覗(きょうし)』を作られる段階で「こういうタッチで」というようにイメージされていた作品というのはありますか?

藤井:漠然とあったのは『ノーマッズ』(1986年・米/ジョン・マクティアナン監督:日本劇場未公開)だったんです。ひとりの女医がある男の死の真相を追っていくのを妄想を交えながら描いていく映画で、今回はそれをやってみたくって、ひとりの少女の動向を妄想を交えながら描いていこうというのが根本にあった気がしています。

―― 『狂覗(きょうし)』は謎解きのミステリー要素も濃厚になっていますね。

藤井:ぼくは謎解きのミステリーが大好きで、いつもそういうことを考えているのでそうなったというところはありますね(笑)。それから、やはり基本としてあった『ノーマッズ』も真相を謎解きしていくミステリーの部分があるので、自然にミステリーになっていったというところもあるんです。ホンを書く段階であったのは「後味のいいものにだけはしたくない」ということですね。いまの社会問題を扱うという意味で、ハッピーエンドにだけはしちゃいけないというのが絶対的にありました。

―― 登場人物が、ひとりひとり明確なキャラクターになっていると思いましたが、それは意図はされていたのでしょうか?

藤井:そうですね、わかりやすいキャラクター作りをしていこうというのはあったんです。ただ、日本って難しいなと思うのが、たとえばアメリカならいろいろな人種がいるからそれを利用してわかりやすいキャラクター作りをすることもできるんですが、日本ではそれはやりにくいじゃないですか。だからいつもそこで苦労するんですけど、最近ホンを書くときはよく大阪人を使うんです。大阪弁で喋るキャラクターだと、なんか遠回しな表現じゃなくてストレートに言うキャラクターにできるんですよね。そこをうまく利用して作品を構築するというのは最近はいつもありますね。

―― そのキャラクターを演じる俳優さんはオーディションで決められたそうですが、選考の際はどういう部分を重視されたのでしょう?

『狂覗(きょうし)』スチール

『狂覗(きょうし)』より。杉山樹志さんが演じる主人公の教師・谷野

藤井:たぶん、どの監督さんも一緒だと思うんですけど、オーディションで求めるところって役割だと思うんです。監督の仕事というのは、たぶん0%から100%まで引き上げるのではなくて、70%から120%に引き上げることだと思うんですよ。そのための70%を探すというのがぼくの仕事だと思うんです。だから、たとえば主人公の谷野だったら、どこか陰を背負っていて病んでいる感じがあるというのはひとつの役割として必要なので、そこをオーディションで探したということです。実は、最初のホンでは谷野は女性だったんですよ。それで、映画では女性になっている美術の橋本先生がホンでは男で、主任の森先生は最初のホンでも男性なので、そこでのちょっとした三角関係みたいなものもあったんですけど、どうしてもオーディションで病んでいる感じを出せる女性がいなかったんですね。ただ、男性だけど病んでいる感じがすごくいい役者(杉山樹志さん)がいたので、じゃあ彼をメインにしようということで逆にしたんです。

―― 脚本上の役割というのが明確にあって、それを表現できる方というのを最重視されたということですか?

藤井:そうです。求める役割というのは最初からまったく変わらないですね。ただ、もうひとつ難しかったのは管先生という先生のキャラクターで、あの先生の立ち位置が難しかったなと思っているんです。俳優さんって、悪く見える人もいるし、すごくいい人に見える人もいるんですけど、両方を同時に持っている人って意外といなくて、たとえば宮川一朗太さんはいい人にも悪い人にも見えるんですけど、一朗太さんみたいに両面を持っている俳優さんというのがなかなかいなくて、今回もそこで苦労したんです。管先生を演じた彼(桂弘さん)は悪い人に見えるんですよ。でもいかにも悪い人に見えるというのはちょっと違うので、いろいろ考えてみて、じゃあこの人に顎をしゃくれさせてもらったらどうなるんだろうと。それで「顎をしゃくれさせてくれ」と言って演技してもらったんです(笑)。でも、やっぱり顎をしゃくれさせて喋ると、そういう喋り方になっちゃうので「しゃくれさせても普通に喋れるところまで持っていってくれ」と彼に頼んだんです。

―― 少しストーリーの内容に触れてしまいますが、ちょっと病んでいる若い教師の谷野と、周囲から変わり者と言われている美術教師の橋本と、登場人物の中でも枠から外れているようなふたりが物語を進める重要な役になっていますね。

藤井:ぼくの中では「どのタイミングで人間って黒くなるんだろう」という興味が常にあるんです。どんなに黒い人でも、普通は最初から黒くなろうと思っていたわけではないと思うんです。かといって、社会に出ていつまでも純粋で「尾崎豊が好きです」みたいではいられないだろうし、だからこそ「この人はいつこうなってしまったのだろう?」というのは常に考えることで、ちょうどその転換期にいるのがあのふたりだと思うんですよね。そこを描きたかったというのはあります。そこを描く上で画的にもいろいろな工夫をしていて、とにかく光と影にこだわったんですよ。一番わかりやすい例が、映画のはじめのほうで森先生が校長先生と教頭先生に呼び出されて責任を取るように促される部分で、あそこは校長と教頭が光をバックに立っていて顔が逆光になっているんです。つまり、それによってこの人たちは黒い人たち、闇の人間だと。それで森先生は光に対面させることで顔が明るく映っているので、この人は光側の人間だと。それが、そのシーンの途中で森先生が場所を変えて逆光側に行くんですよね。その流れで「この人は黒い世界に足を踏み入れた」ということを画で見せようと努力はしたんです。ほかのシーンでもそういった感じで、教室内でも闇の側は逆光で、光の側は顔に光が当たるように構成を組んだつもりなんです。だから、人が闇に行く瞬間みたいなのを捉えたいと思ったのはありました。

「ぼくの中で自分の嫌な思い出ってすごく色鮮やかに残っているんですよ」

―― 「光と影」のお話が出ましたが、それも含めかなり作為的な映像になっているという印象を受けました。それはホラーの手法からの影響というのが大きいのでしょうか?

藤井:それはありますね。あと、二分化して学校外の世界に関しては極力リアルに描いたつもりなんです。だから学校外のシーンは色もいじっていないし、基本的に手持ちカメラでドキュメンタリータッチで構成しているんですよ。それで学校の中に関しては、手持ちカメラは一切使わず脚に乗っけて撮っていて、その違いを出した理由というのは、現実世界からちょっと危険な世界に足を踏み込んだというのを表現したかったというのがあります。

―― 校内のシーンでは色調をかなり大胆にコントロールされていますね。

藤井:そうですね。ちょっと不思議な国じゃないですけど、そういった部分を意識しているのはもちろんあります。それと同時に、色でいろんな部分を表現できないかなというのもあって、特に万田という女子生徒が出てくる妄想のシーンに関しては3つのテーマがあって「純粋さ」といわゆる「性」、もうひとつは「怖さ」という3つを表現できる色はないかと思って、かなり時間をかけて色を探したのはありますね。

―― 特に、谷野の回想のシーンでの鮮やかな色調が印象に残ります。

藤井:あそこは色鮮やかにしたかったんですよね。というのは、ぼくの中で自分の嫌な思い出ってすごく鮮明に残っているんですよ。実際に体験したときにはこんな鮮やかじゃなかっただろうというくらい色鮮やかに残っている部分があって、だから回想の部分については色を落とすかたちじゃなくて、色鮮やかな世界で残酷さを描きたいなと思っていました。

―― 基本的に教室の中で展開する映画ですが、そういう回想シーンや妄想シーン、あるいは教室外のシーンが入ることで単調さを感じなくて、シチュエーションの変化を入れるタイミングは相当に計算をされているのかなと思いました。

『狂覗(きょうし)』スチール

『狂覗(きょうし)』より。教師たちは教室でなにを“覗く”のか……

藤井:ぼくはもともとフィルムから始まっているので、ホンを書くときにフィルムのロールを意識して書いているところはあるんですよ。だから20分おきにクライマックスが来るみたいなホンの書き方はいつもしているんです。そろそろ教室から出さないとこのロールは持たないなみたいな(笑)。

―― 今回は監督ご自身が撮影もやっていらっしゃいますが、どういう画を撮るかは現場に入る前に想定されていたわけですね。

藤井:もちろんです。ぼくはもともと絵コンテ主義なんで、完全に全編の絵コンテを作るんですけど、今回は自分でカメラをやるので全編の絵コンテ作る必要はなくて、最初のシーンとラストだけ絵コンテを描いて、それ以外は描かなかったんですけど、画は頭のなかにすべて構築できていました。

―― もうひとつ映像面で印象的なのが、ほとんど顔を見せないという生徒の描き方です。

藤井:そこはもう、完全に教師たちの目線ですよね。いまの教師たちがたぶん生徒を見ていないというところからの発想です。よく「低予算だから顔を映すと人数少ないのがバレるから映さなかったの?」みたいなことを言われるんですよ(笑)。たしかに生徒役は30人も集められていないんですけど、もしもっと人数がいても顔はひとりも映さなかったと思います。

「社会の現状に対して深く考えるのであれば、バッドエンドは絶対的に必要」

―― 公式サイトによると、現場のスケジュールはかなりハードだったそうですね。

藤井:ハードですね、この作品は4日間完徹だったので。でも、ぼくは低予算の作品をたくさんやってきて、デビュー作からハードだったんで、スタッフさんがみんなおっしゃるのは「完徹」と言っていてほんとに完徹する現場は初めてだと。つまり、たいていの現場は完徹したら翌日は撮休だとか、12時回ったら一度終わらせて、みんな何時間か休んで戻ってくるのが普通なんですけど、うちの場合はほんとに完徹なんで、ハードとしか言いようがないですね。ハードすぎてあんまり覚えてないくらいなんですよ、実は(笑)。スピルバーグなんかはインタビューとかで「撮影は60日間で、こんなことがあって、あんなことがあって」みたいに話したりしていますけど、よく覚えていられるなって(笑)。ただ、監督はそういうときも自分の作品を作っているからいいというところもあるんですけど、つらいのはスタッフさんだし、役者ですよね。うちの場合は俳優がスタッフをしているという部分もあるので、そこは死にものぐるいだったと思います。

―― 今回は撮影は順撮りというか、ストーリーの流れに沿ったかたちだったのでしょうか?

藤井:順撮りですね。

―― そうすると、教師たちが次第に疲弊して憔悴していくのも……。

藤井:芝居じゃないですね(笑)。そこを狙ってやっていたわけではないんですけど、みんな撮影の最後のほうにはこうなるんじゃないかというのは予測していました。映画って、必ず100の問題が起きるって言われているじゃないですか。予測のつかない問題がいっぱい起きるんですけど、そこに関してはまったく予想通りでした(笑)。

―― 少し別の角度からお尋ねしたいのですが、今回の『狂覗(きょうし)』は、公式サイトや予告編などで事前に情報を得ていても、絶対に予想を越えた驚きが得られる作品になっていると感じました。予告編などでなにを見せてなにを見せないかという部分は、相当に計算をされていたのでしょうか?

インタビュー写真

藤井:それはすごく嬉しいですね。ここで「計算してた」と言うとカッコよすぎちゃうんで、たぶん計算してないと思います(笑)。ただ、ぼくは小さいころから映画をずっと観てきて、潜在的に植え付けられているところがあるんですよね。だから、予告編を見てお客さんが映画館に行って裏切られないような予告編にしなきゃっていうのはいつも頭にあるんですよ。やはり、予告編と本編ってリンクするものなので、しっかり考えなければいけないと思います。ときどき、変わった予告編を作ってみようかとも思うこともあるんですけどね。でも、作ってみてダメだと思ったらすぐやめちゃいます(笑)。

―― 試写などで作品をご覧になった方々の感想も届いていらっしゃると思いますが、寄せられた感想に対して監督が特に感じられたことがあればお聞かせいただけますか?

藤井:いま、ちょうど共謀罪が話題となっていますけど「共謀罪を描いた映画なのですか?」という質問を受けたときにはすごく嬉しかったですね。もちろん答えは「ノー」なんです、撮影したのは共謀罪がいまのように話題となる前でしたから。ただ、やはり世の中のほとんどのクリエイターたちは「管理社会への危機感」を描きたいという部分がずっとあって、宮沢章夫先生が「14歳の国」で書かれた「秘密裏の荷物検査」という部分にぼくが惹かれたのはそこが理由だったんです。そこを通して管理社会への危機を促せる作品にできたらいいなというのはあったので、共謀罪とリンクして観てくださったのは、すごく嬉しかったですね。

―― 「14歳の国」が上演されたのが約20年前(※1998年)で、そこで描かれた時代の不安感が現在にも通用してしまっているというところがありますね。

藤井:やはり、管理社会への恐怖はずっとあるんだと思います。それこそ、1970年代にもうジョージ・ルーカスは『THX-1138』(1970年・米)を作っていますし。ただ、ぼくは共謀罪の「犯罪を未然に防ぐ」ということ自体にはそんなに反対ではないんです。根本の問題は、我々がその法律を扱えるほど成熟していないということで、それがこの映画だと思っているんです。犯罪を未然に防ぐための行為が結局は自分の私利私欲のための行為につながっていくという、その未熟さですよね。だから、それを考えてもらうという部分で、タイミング的によかったのかなと思っています。

―― それは、この映画のきっかけである中学生のSNSの問題にも通じますね。判断する力が付く前に道具を手にしてしまっているという。

藤井:そうなんですよね。だからその問題をどうしたいかということよりも、問題を問題として深く考えていかなくてはいけないと思いますし、そのためにはハッピーエンドではダメなんです。ぼくが考えさせられてきた映画というのはどれも後味が悪い映画ばかりなので、いまの社会の現状に対して深く考えるのであれば、バッドエンドは絶対的に必要なものだと思います。

―― 最後にもうひとつお尋ねしたいのが、この『狂覗(きょうし)』というタイトルについてで、文字としてのインパクトも強いですし、読みは「教師」とかかっていますし、映画を観るとなるほどと思いますし、すごいタイトルですね。

藤井:それはやはり宮沢先生のプロットが素晴らしすぎるので、原案のおかげですよね。覗く行為ですし、エンディングにもうまくつながっていきますし。そこからのぼくの思い入れは実はエンドロールにあって、最後にタイトルが出たあとを観てもらって、なにを考えるのかが重要かと思います。ぼくはあれがいまの現状なのかなって思っているので。それに関して宮台真司さんがくださったコメントがすごく的を射ていて(※『狂覗(きょうし)』公式ウェブサイトに掲載)、ほんとに目からウロコでびっくりしたんです。まさにぼくがやりたかったのはそこだって。その想いをエンドロールに託したので、そこからみなさんがどう考えるのかっていう話なんですよね。ただ、宮台さんのコメントは若い方なんかにはもしかしたらわかりにくいかもしれないなって思うところもあって、ぼくの役割はそういうことをなるべくわかりやすく噛み砕いて、映画として伝えていくことなんだろうなと思います。

(2017年6月26日/都内にて収録)

作品スチール

狂覗(きょうし)

  • 監督・脚本・撮影・編集・製作:藤井秀剛
  • 原案:宮沢章夫「14歳の国」(白水社刊)
  • 出演:杉山樹志 田中大貴 宮下純 坂井貴子 桂弘 ほか

2017年7月22日(土)よりアップリンク渋谷にて、8月19日(土)より別府ブルーバードにてロードショー

『狂覗(きょうし)』の詳しい作品情報はこちら!

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